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コラム

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『China Report』Vol.24
中国新指導部の“プロファイリング” ③:
王滬寧 三代帝師


李昊 (日本国際問題研究所 若手客員研究員)


 2017年10月、中国共産党第19回全国代表大会(通称:党大会)と第一回中央委員会全体会議(通称:一中全会)が開かれ、今後5年間の中国を治める新しい指導部が発足した。本シリーズでは、新しい指導部の注目すべき人物について、①経歴、②人脈、③政策、思想的傾向、④今後の展望の四つの視点からプロファイリングを行い、紹介している。
 今回は、序列五位の新政治局常務委員、王滬寧を取り上げる1

経歴2
 王滬寧は今日の共産党きっての理論家として知られ、習近平のブレーンを務めている。1955年に上海で生まれ、1995年に北京に移るまで同地で過ごした。王滬寧の父親は共産党の幹部であり、教育熱心だったようである3。その影響もあって、王滬寧は勉強好きに育った。文化大革命中、1968年頃から若者が農村に送られて、そこで農作業をしながら生活をする「上山下郷」が広く行われるようになった。本来ならば王滬寧も中学卒業時に農村に送られるはずであったが、体が弱かったため上海に留まることができた。その後、上海師範大学の外国語訓練班に進み、1977年までフランス語を学んだ4。当時、文化大革命という政治環境の下、思想の締め付けが厳しく、今日と比較しても多くの書物が禁書とされていた。そのような状況の中、王滬寧は大学の教員に頼み込んで禁書を借り、外国文学を含む様々な書物を読み漁ったという5。もちろん、マルクスやエンゲルス、レーニン、毛沢東などの著作も大量に読んだ。
 王滬寧は1977年に上海師範大学を出て、上海市出版局に就職した6。1978年に鄧小平の主導によって全国大学入試が復活し、王滬寧も受験した7。そこで素晴らしい成績を収め、学部を飛ばして、直接地元上海の名門である復旦大学の国際政治専攻修士課程に入学を許可された。大学院では、『資本論』の研究で著名な陳其人の下で学び、1981年に「ボーダンからマリタンへ ―西側資本主義階級における主権理論の発展を論じる」と題した修士論文をまとめた8。修士課程修了後、王滬寧はそのまま復旦大学に教員として残り、政治経済学や比較政治、行政学、現代西洋政治思想、マルクス主義など、政治学の幅広い分野の授業を受け持った。その後1985年に異例の若さで副教授(日本の准教授に当たる)、1988年に教授に昇進し、1989年から1994年まで国際政治学系(日本の学科に当たる)主任を務め、1994年から1995年までは法学院(日本の学部に当たる)院長を務めた。以上のように、1995年まで王滬寧は基本的に政治学者としてキャリアを重ねた9
 1980年代、中国において政治学は新しい学問であった10。若き王滬寧は十数冊に及ぶ著書や、大量の雑誌論文、新聞記事を発表し、まさに政治学のスター学者であった11。1988年から1989年にかけて、王滬寧はアメリカのアイオワ大学およびカリフォルニア大学バークレー校に訪問学者として留学し、アメリカ社会やアメリカ政治に対する見識も深めた12。留学中には、多くのアメリカの大学を訪問し、交流している。また、1994年に出版された王滬寧の日記によると、神戸大学に客員教授として訪日する計画もあったが、中学校や高校の具体的な卒業の日付を求められるなど、提出書類が細かすぎるため、馬鹿らしくなって取りやめたという逸話もある13
 復旦大学在職中、王滬寧は復旦大学のディベートチームのコーチとしても活躍したことが知られている。1988年や1993年にシンガポールで開かれた国際弁論大会で復旦大学は優勝し、その様子は国内でもテレビ放送された14。また、1994年には学術活動の一環で台北を訪れていることも知られている15
 王滬寧のキャリアに転機が訪れたのは、1995年である。王滬寧は上海の復旦大学を離れて北京に移り、中央政策研究室の政治グループ長となった。中央政策研究室とは、共産党の様々な公式文書を起草し、政策や理論の研究を行う部門であり、党内シンクタンクである16。それ以降、王滬寧は共産党中央において、党や党指導者のために理論を研究し、党の公式文書を起草するようになり、自らの名で文章を発表することは殆ど無くなった。王滬寧は、中央政策研究室でキャリアを重ね、1998年に副主任、2002年以降は現在に至るまで主任を務めている。その間、2002年の第16回党大会で中央委員に昇格し、2007年の第17回党大会後の一中全会において、中央書記処書記にも就任した(2012年まで)。2012年の第18回党大会後の一中全会では中央政治局委員に選ばれた。通常中央政策研究室主任はヒラの中央委員に留まることが多く、この抜擢は2012年当時驚きをもって受け止められ、話題になった。2012年以降、王滬寧は習近平の視察や外遊に必ず随行し、注目を集めた。また、2013年11月の共産党第18期三中全会において中央全面深化改革領導小組の設置が決定され、2014年1月に正式に発足したが、王滬寧はこの習近平肝いりの重要組織の弁公室主任にも就任した。昨年10月の第19回党大会後の一中全会において王滬寧は更に昇格して、ついに政治局常務委員に就いた。
 江沢民の「三つの代表」、胡錦濤の「科学的発展観」、習近平の「中国の夢」や「習近平新時代中国特色社会主義思想」などの理論構築において、いずれも王滬寧が主要な役割を果たしたことが知られている17。三代の総書記に理論家として仕えたことを喩えて、王滬寧は「三代帝師」と呼ばれる18。今の王滬寧は、共産党の最高指導部たる政治局常務委員会の委員であり、同時に共産党随一の理論家、イデオローグである。王滬寧はもともと大学を離れたがらず19、北京に移った後もひところ大学に復帰する希望を持っていたと言われる20。それは結局叶わず、ついに党の最高指導部入りするに至った。かつては研究者として、海外の研究者とも交流があったが、今ではそれも断絶してしまい、過去の知人たちは今や王滬寧にアプローチすることは不可能になった21
 通常、共産党の最高指導部たる政治局常務委員会の委員は、中央政府(即ち国務院)や地方で行政経験を積んだ人物が選ばれる。しかし王滬寧は、キャリアの殆どを復旦大学と中央政策研究室という研究機関で過ごした。行政経験のない理論家の常務委員会入りは、文化大革命中の陳伯達以来である22。その意味では、王滬寧の常務委員会入りは、異例中の異例の人事である。ただ、昨年の党大会直前の人事予想において、王滬寧は概ね有力候補とみなされており、昇進それ自体は意外なものではなかった23。王滬寧の常務委員会入りは、今日の共産党において、それだけイデオロギーが重視されていることの証左と言えよう。

人脈
 王滬寧は長らく江沢民率いる「上海閥」の一員とみなされた24。王滬寧が上海出身であり、同地で長く仕事したこと、そして江沢民のブレーンとして活動したことからそのように考えられた。また、王滬寧を中央に抜擢することを江沢民に進言したのが曽慶紅と呉邦国であったことも重要である25。北京で王滬寧と江沢民が初めて会った時、江沢民が「あなたがまだ北京に来なかったら、この人たちは私に対して暴れていたところですよ」と冗談を飛ばしたと言われる26
 このように、王滬寧の抜擢の過程において江沢民の側近が重要な役割を果たし、その後王滬寧が江沢民のブレーンとしての活動したのは事実である。しかし、王滬寧と江沢民の関係が特別であったわけではない。王滬寧は後任者の胡錦濤、そして習近平とも緊密な関係を築いている。三人の総書記はブレーンとしての王滬寧を深く信頼して重用し、王滬寧も彼らに忠実に仕えている。
 なお、王滬寧が他の政治エリートたちと深い関係にあることを示す資料はない。また、王滬寧自分自身も子分を従えているわけではなく、基本的に派閥とは無縁の人物であると言える27

政策、思想的傾向
 王滬寧は長らく政治学者として活動していたため、多くの著書や論文が公刊されている。そのため、他の指導者と比べて、その考え方を知るための材料は豊富である28。しかし、1995年に北京に移って以降、王滬寧自身の署名による文章は殆どなくなったため、今日の政治局常務委員王滬寧とかつての復旦大学教授王滬寧の政策、思想的傾向が同様であるとは限らないことには留意しなければならない。
 キャリアの初期において、王滬寧の研究の中心は、西洋政治思想や西洋の政治学の現状の紹介であった29。1980年代後半以降、王滬寧の研究分野は拡大し、『国家主権』(北京、人民出版社、1987年)や代表作の『比較政治分析』(上海、上海人民出版社、1987年)など大きなテーマを扱った著作を次々に発表した。王滬寧が論じた全ての事柄をここで紹介することは不可能であるが、ここで注目に値するのは、1980年代後半、中国において政治改革が進められていた時期に王滬寧が発表した近代化、政治のリーダーシップ、政治改革などに関する論考であろう。 
 王滬寧について書かれた多くの文章に記されているように、「歴史―社会―文化条件」という分析枠組は王滬寧の代名詞でもある30。即ち、政治の発展の速度や望ましい政治制度は、歴史、社会、文化の諸条件によって規定されるものであり、国や社会によって異なるということである。また、「歴史―社会―文化条件」は変化するものであり、それに従って望ましい政治のあり方も当然変化する。この王滬寧の「歴史―社会―文化条件」は中国の国情を強調する「中国の特色」と強い親和性があり、中国共産党の統治にとっても都合の良い言説である31
 「歴史―社会―文化条件」の枠組を用いて、王滬寧はいくつかのよく知られる論文において中国の発展戦略と政治のあり方について論じている。まず、王滬寧は中国が「ポスト革命社会」の段階にあるとして、その社会において、政治のリーダーシップは必然的に高度に集権的になる(「高度集権的政治領導方式」)と論じた32。そして、日本やアジアの四小龍、カメルーン、フランスなどの例をとって、強力な政治のリーダーシップの下での「集権的近代化モデル」(「集中現代化模式」)によって効率的に資源を分配し、発展を実現すべきであると主張する33。また、政治の民主化と政治の安定は双方が追求されるべき目標であるが、民主化の過程においては、安定性が損なわれることがあるため、ポスト革命社会においては、高度に集権的な体制を採用し、政治的な安定を維持しながら、必要な各種条件を整えたのちに民主化を実現すべきであるとも論じている34
 王滬寧はこの集権、政治的安定を重視する姿勢のために、「新権威主義」の論者として紹介されることがある35。しかし、王滬寧自身はそのような呼称は好まず、使用を避けていた36。また、上海を拠点として「新権威主義」を主張していた人々は1990年代に入ると「新保守主義」という言葉を使うようになったが、王滬寧はこちらにも同調しなかった37。とはいえ、それはあくまでもラベリングの問題であり、王滬寧の考え方は「新権威主義」や「新保守主義」と呼ばれるものと本質的に異なるものではなかった。
 ただし、王滬寧の集権的体制に関する議論を、独裁政治を志向するものだと考えるのは正しくない。1986年、王滬寧は上海の『世界経済導報』に「『文革』の反省と政治体制改革」という文章を載せている38。文中で、王滬寧は文化大革命の発生は偶然ではなかったとして、イデオロギー、歴史、社会、経済、文化の諸要因の他に、政治体制の不備が文革の発生を防ぐことに失敗した重要な原因であったと論じている。政治体制の欠陥として王滬寧は、(1)党内民主の欠如、(2)国家権力機関としての人民代表大会の機能不全、(3)憲法の運用を保障する制度の欠如、(4)独立した司法制度の欠如、(5)下級(地方)への分権メカニズムの欠如、(6)国家工作人員制度(国家公務員制度)の欠如、(7)公民の権利を保障する制度の欠如などの諸要因を列挙している。王滬寧が挙げた問題の多くは、1987年の第13回党大会における政治改革案にも盛り込まれた39。この文章を読むと、王滬寧の改革志向の一面を発見できる。
 日本やフランスの例にも言及している様に、王滬寧にとって、集権的な政治リーダーシップは、資源の分配を効率的に行うための手段である。王滬寧の関心は、中央―地方関係や行政機構の改革にあり40、独裁か民主かの選択に収束する問題ではなかった。王滬寧にとっても政治の民主化は追求されるべき目標であった。とはいえ、王滬寧の考える民主化が西洋の自由民主主義と同義でないことは強調しなければならない。王滬寧は1980年代末にアメリカに留学したが、帰国後に『アメリカがアメリカに反対する』と題する著作を出版している41。アメリカは決して単一のイメージで語ることができるものでなく、単なる「ブルジョワ独裁」の国でもなければ、完璧な理想郷でもないというのがその書名の含意である。とはいえ、書名に加え、この本が第二次天安門事件後の1991年に出版されたこと、そしてアメリカの社会や政治における理想と現実の矛盾を描いていることから考えると、その主眼がアメリカが中国の手本となり得ないという点に置かれているのは明らかである。
 上述した王滬寧の思想的傾向は今日の中国政治を理解する上で有用である。胡錦濤政権時代の中国政治の実態は分権的な様相を強く見せていた。集団領導体制の下で、最高指導部の政治局常務委員会においても分業体制が採用された。その結果、各部門の縦割り行政は深刻な問題となり、中央の地方に対する統制力も充分に発揮できなかった。それが腐敗の蔓延や改革の停滞を生み出したという危機感は共産党内で広く共有された。それゆえ習近平政権においては、様々な部門横断型の「領導小組」が設置され、急速に党中央の権威が強調されるようになった。これらの施策はまさに集権化の試みである42。王滬寧の視点から考えると、それはまさに今日の中国の「歴史―社会―文化条件」に適した政治リーダーシップである。しかし、王滬寧にとって集権化はあくまでも政治リーダーシップの強化であり、改革を前進させ、発展を進めるための施策であって、個人独裁や個人崇拝のためではない。2016年以降、習近平が共産党の「核心」と呼称されて以降、一度ならず個人崇拝が進められる気配があったが、王滬寧がそれを抑制した形跡が見られることにも留意すべきである43
 王滬寧が党内理論家として活動する様になってから20数年が経った。今日、政治局常務委員として王滬寧がどの様な考え方を有しているかを知るのは困難である。しかしこれまで見てきた様に、過去の王滬寧の論考に触れ、その思想的傾向を知ることは、今日の中国政治を理解する一助となるだろう。

今後の展望
 王滬寧は、2018年の党大会後の一中全会において序列五位の政治局常務委員に就任した。これまでの慣例上、この序列の常務委員は党中央精神文明建設指導委員会の主任を務め、思想、イデオロギーを管轄してきた。王滬寧も例外ではなく、公式経歴において同委員会主任への就任が確認されている。また、党の政治局および政治局常務委員会の事務機関である中央書記処の筆頭書記も務めている。これらは、前任者の劉雲山の役職を受け継いだものである。さらに、王滬寧は2014年より中央全面深化改革領導小組弁公室主任を兼任していたが、3月に発表された「党と国家機構の改革方案」に従って、当該小組は中央全面深化改革委員会に改組され、王滬寧はその副主任に就任した44。これらのことから、王滬寧は今後も理論面で習近平、ひいては共産党指導部のブレーンであり続け、その役割は一層高まっていると考えられる。世界の注目を集めた3月の全国人民代表大会における憲法改正にも、王滬寧は憲法改正ワーキンググループ(「憲法修改小組」)の副組長として深く関わったことが明らかになっている45。なお、王滬寧は現在のところ、まだ中央政策研究室主任を兼任しているが、政治局常務委員がこの役職を保持し続けるとは考えづらいため、いずれ別の人物に引き継がれるものと思われる。
 他方で、王滬寧は必ずしも劉雲山の仕事をすべて受け継いだ訳ではない。中央党校校長の役職は、従来政治局常務委員のうち、中央書記処の筆頭書記が務めて来たが、今期は政治局常務委員から外れて、政治局委員の陳希(中央組織部部長)が兼任することになった。また、これまで中央書記処の筆頭書記は組織部門も管轄していたが、王滬寧はこの部門を引き継がなかったと考えられている46。おそらく、習近平が直接責任を持ち、中央組織部部長の陳希がその指導の下で活動するものと推測される。王滬寧がこれまで一貫して理論畑を歩んで来たことを考慮して、イデオロギーの仕事に集中できるようにしたとも考えられるし、習近平が王滬寧を信頼しきれず、自ら組織部門を掌握しようとしていることを反映している可能性も否定できない。
 また、2018年1月に王滬寧は全国総工会(労働組合)、共産主義青年団、全国婦女聯合会、中国科学技術協会、中華全国帰国華僑聯合会など五つの大衆団体の合同会議に出席し、講話を発表している47。そのためこれら大衆団体関連の業務も担当していると見られている48。この部門は、それまで国家副主席であった李源潮が担当していた。そのこともあって、一時は王滬寧が国家副主席になるのではないかという観測もあったが49、結果として王岐山が国家副主席に就任した。
 もう一つ、王滬寧の重要な役割として挙げられるのは、対北朝鮮外交である。2017年の12月に、王滬寧が対北朝鮮外交を担当することになったとの報道があったが50、2018年3月の金正恩訪中の際、実際に王滬寧は北京駅での出迎えと見送りに出向いたほか、中国科学院への視察にも同行しており、それが事実であることが明らかになった51。5月の金正恩の大連訪問においても、王滬寧が関連活動に参加したことが発表されている52。従来、社会主義国同士の外交関係においては、国家と国家の関係よりも、政権党たる共産主義政党同士の関係が重視されて来た。そのこともあって、王滬寧のこの役割分担は、共産党の慣例に則っていると言える。
 これまで見て来たように、王滬寧は今後五年間において、大衆団体関連業務や対北朝鮮外交などの役割を担いつつ、基本的には思想、イデオロギーを管轄し、党の理論家、党指導部のブレーンとして活動することが予想される。過去の有名な理論家として、文革中に失脚した陳伯達や、第13回党大会の中央委員選挙において落選するという憂き目に遭った鄧力群などが思い起こされる。彼らはいずれも左の陣営に属してきた人物として知られるが、これらの左派の理論家に比べて王滬寧は慎重で目立たず、また、大々的にイデオロギー論争を展開しているわけでもなく、強烈な敵対者がいる様子もない。今の所、習近平との関係についても矛盾は見当たらず、ボスに忠実に仕事をしているように見える。しかし、習近平個人への更なる権力集中や任期の問題など不確定要素も多く、両者の今後の関係を見通すのは容易ではない。
 次回党大会が開かれる2022年、1955年生まれの王滬寧は67歳になるため、現在の定年に関する不文律に従えば、理論上は政治局常務委員への留任が可能である。留任か退任かにかかわらず、2022年以降も王滬寧が理論家として影響力を持ち続ける可能性は十分にある。
 


1 王滬寧については、パタパンと王毅の共著論文やニューヨーク・タイムズ、エコノミストなどの記事が参考になる。Haig Patapan, Yi Wang, “The Hidden Ruler: Wang Huning and the Making of Contemporary China,” Journal of Contemporary China. Vol. 27, No. 109 (2018) pp.47–60. Jane Perlez, “Behind the Scenes, Communist Strategist Presses China’s Rise,” New York Times, 13 November 2017 (URL: https://www.nytimes.com/2017/11/13/world/asia/china-xi-jinping-wang-huning.html 2018年5月17日閲覧), “The Meaning of the Man behind China’s Ideology: Why Wang Huning Is a Name to Remember,” The Economist, 2 November 2017 (URL: https://www.economist.com/news/china/21730898-why-wang-huning-name-remember-meaning-man-behind-chinas-ideology 2018年5月17日閲覧).
2 王滬寧の公式経歴については、新華社のウェブページを参照(URL: http://www.xinhuanet.com/politics/19cpcnc/2017-10/25/c_1121856317.htm 2018年5月17日閲覧)。
3 陳浩、王革「後来居上者 記復旦大学最年軽的副教授王滬寧」『中国高等教育』1986年第9期、20頁。
4 王滬寧の公式の経歴によれば、上海師範大学で学んだのは1972年から1977年となっている。1986年に出版された王滬寧を紹介する記事はこの公式の経歴と矛盾しない(陳浩、王革「後来居上者 記復旦大学最年軽的副教授王滬寧」20頁)。しかし、2002年から2003年にかけて出版されたいくつか記事において、王滬寧は1971年に中学を卒業した後、3年間の「学徒工」(学生労働者)期間を経て、1974年に「工農兵学員」として推薦されて、華東師範大学(1970年代当時は上海師範大学という名称)に入学したとされている。例えば、周軍「王滬寧:從青年学者到高層智嚢」『世紀行』2002年第3期、32頁、張暁霞「王滬寧:学者従政的典範」『領導科学』2003年第4期、23頁、肖舟「国政“文旦”―王滬寧」『華人時刊』2003年第8期、28頁。これらは同じ時期に出版され、ほぼ同様の文言を使っていることから、相互参照、相互引用したものと推測される。後に出版された記事では、1971年に中学を卒業した後、短期間の「学徒工」期間を経て、1972年夏に上海師範大学に入学したと公式の経歴と齟齬のない記述になっている。例えば、肖舟「王滬寧:走進中南海的政治学者」『党史天地』2008年第4期、27頁、肖虹「王滬寧:従学者走入決策層」『金秋』2014年第13期、14頁。特に問題のある経歴ではなく、現実を公式の経歴に合わせて改ざんしたとは考えにくいため、2002年から2003年に出版された記事の説明は事実誤認である可能性がある。
5 陳浩、王革「後来居上者 記復旦大学最年軽的副教授王滬寧」20頁。
6 上海師範大学の外国語訓練班のプログラムは学位課程ではなく、王滬寧は学士を取得したわけではない。
7 現国務院総理李克強もこの年の大学入試を受験し、北京大学に入学している。
8 陳浩、王革「後来居上者 記復旦大学最年軽的副教授王滬寧」21頁。陳其人が正式に王滬寧の指導教員になるのは、修士課程の2年目からである。なお、中国の修士課程の標準修業年限は3年である。
9 王滬寧は修士課程修了後、すぐに教職についたため、博士号を取得していない。
10 中国政治学会は1980年に設立された。中国における人文社会系最大の国営シンクタンクである社会科学院において政治学研究所が設立されたのは、1985年である。中国における政治学の発展については、国分良成の著書に詳しい。国分良成「政治学の発展と民主化 学問の自由を求めて」『中国政治と民主化 改革・開放政策の実証分析』東京、サイマル出版会、1992、177-207頁。
11 王紹光によると、1995年に中央政策研究室に移る前の王滬寧は、73本の論文を公刊しており、中国で最も多産な政治学者であったという。王紹光「中国政治学三十年:従取経到本土化」『中国社会科学』2010年、第6期、18頁。
12 「王滬寧同志簡歴」『新華網』2012年11月15日(URL: http://www.xinhuanet.com/18cpcnc/2012-11/15/c_113700355.htm 2018年5月17日閲覧)。最新の公式経歴からは、この留学歴が削除されているが、秘匿されているわけではなく、ウェブ上の多くのページで見つけることができる。なお、現政治局常務委員会の中で、欧米への留学歴を持つのは、王滬寧ただ一人である。前期の政治局常務委員会では、張徳江が唯一の外国留学経験者だったが、彼の留学先は北朝鮮の金日成総合大学であった。
13 王滬寧『政治的人生』上海、上海人民出版社、1995、9頁。
14 Patapan, Wang, “The Hidden Ruler: Wang Huning and the Making of Contemporary China,” pp.49-50. Perlez, “Behind the Scenes, Communist Strategist Presses China’s Rise.” 剣君「博士生導師王滬寧教授」『復旦学報(社会科学版)』1994年第3期、113頁。
15 陳言喬「新常委王滬寧、韓正 都来過台湾」『聯合報』2017年10月26日(URL: https://udn.com/news/story/11556/2779105 2018年5月17日閲覧)、王滬寧『政治的人生』159頁。
16 「中共中央政策研究室主要職能」『中国網』(2011年4月15日)(URL: http://www.china.com.cn/cpc/2011-04/15/content_22369278.htm 2018年5月17日閲覧)。
17 古谷浩一「江沢民氏、人事・理論で布石 第3世代は引退 中国共産党大会閉幕」『朝日新聞』2002年11月15日、「王滬寧 中央政策研究室主任 3代の演説起草家」『読売新聞』2017年10月26日、「王滬寧:両代元首文胆 学優則仕 献策『三個代表』『科学発展観』」『明報』2012年9月3日、「三朝智嚢王滬寧助育『習思想』」『明報』2017年10月5日。朝日新聞中国総局『紅の党 完全版』東京、朝日新聞出版、2013、337頁。
18 安童「三代帝師王滬寧:十九大黒馬 学而優則仕」『多維新聞』2017年10月25日(URL: http://culture.dwnews.com/history/news/2017-10-25/60019601.html 2018年4月12日閲覧)。同様の意味の呼称として、「三朝帝師」、「三代国師」、「三朝智嚢」などがある。例えば、蘇米「十九大入常“三朝帝師”王滬寧走向前台」『多維新聞』2017年10月24日(URL: http://news.dwnews.com/china/news/2017-10-24/60019257.html 2018年5月17日閲覧)、孫嘉業「王滬寧之謎」『明報』2018年2月7日、「三朝智嚢王滬寧助育『習思想』」『明報』。
19 魏承思「従幕僚到政治局委員 王滬寧和新権威主義」『明報月刊』2013年1月1日(URL: https://mingpaomonthly.com/從幕僚到政治局委員-王滬寧和新權威主義%E3%80%80 2018年5月17日閲覧)。
20 加藤千洋「『奥の院』を知りすぎた男」『朝日新聞』2002年11月3日。
21 Edward Wong, “Xi Jinping’s Inner Circle Offers Cold Shoulder to Western Officials,” New York Times, 25 September 2015 (URL: https://www.nytimes.com/2015/09/26/world/asia/xi-jinping-china-president-inner-circle-western-officials.html?mtrref=www.nytimes.com 2018年5月17日閲覧), Perlez, “Behind the Scenes, Communist Strategist Presses China’s Rise.” アメリカの著名な中国政治研究者で、クリントン政権のNSCで中国政策を担当したリバソール(Kenneth G. Lieberthal)は、2015年の習近平訪米中の昼食会で王滬寧と会う機会があったが、その際に、次回北京に行く時に会えないかと誘ったところ、王滬寧は「内部」で仕事しているために会うのは不可能だとして断ったという。
22 陳伯達は毛沢東の秘書を長らく務め、毛沢東のスピーチライターでもあった。毛沢東時代の共産党随一の理論家であり、毛沢東思想の理論構築において大きな貢献を果たした。文化大革命が始まった1966年に政治局常務委員に昇進したが、1970年に失脚した。在米華人中国政治観察者の高新が王滬寧と陳伯達を関連付けたコラムを書いており、参考になる。高新「王滬寧有弁法令自己不会成為中共党内“第二個陳伯達”」『自由亜洲電台』2017年12月11日(URL: https://www.rfa.org/mandarin/zhuanlan/yehuazhongnanhai/gx-12112017131254.html 2018年5月17日閲覧)。「四人組」のうちの一人で、1973年から1976まで政治局常務委員を務めた張春橋も理論畑出身ではあるが、文革中に上海市革命委員会主任(1967年から1976年まで)を務めており、地方行政経験を有する。また、1975年以降は、軍の総政治部主任や国務院副総理なども務めた。鄧小平時代の理論家として胡喬木(元政治局委員)や鄧力群(元中央書記処書記)が有名だが、いずれも政治局常務委員にはならなかった。
23 延与光貞「王岐山氏の残留焦点 中国指導部 人事の季節」『朝日新聞』2017年8月23日、永井央紀「きょう開幕 ― 最高指導部に栗・汪氏、『ポスト習』世代処遇も焦点(2017共産党大会)」『日本経済新聞』2017年10月18日。
24 例えば、「未来見据え布石着々 中国新体制始動」『朝日新聞』2002年11月17日、栗原健太郎「江氏側近の王滬寧氏、閣僚級に 『三つの代表』主導 中国」『朝日新聞』2002年12月21日。
25 曽慶紅は1984年から上海に勤め、市の組織部副部長や部長、市党委員会秘書長、副書記などを務めた後、江沢民の総書記就任に合わせて中央弁公庁副主任に移った。呉邦国は1967年の就職以来、上海でキャリアを積んだ。1985年から1991年まで市党委員会副書記、1991年から1994年まで市党委員会書記を務めた後、1995年に国務院副総理に就任していた。両者は江沢民率いる「上海閥」の中核メンバーとして知られる。一説によれば、曽慶紅はある年の春節茶話会で復旦大学を訪問し、会の後に王滬寧と二時間に渡って個別に会話したという。また、呉邦国も王滬寧を政治顧問に起用するアイディアを持っており、度々江沢民に提起していたという。Patapan, Wang, “The Hidden Ruler: Wang Huning and the Making of Contemporary China,” p.50.
26 「この人たち」は曽慶紅や呉邦国のことを指す。Patapan, Wang, “The Hidden Ruler: Wang Huning and the Making of Contemporary China,” p.50.
27 ただし、王滬寧の教え子で復旦大学の副校長を務めていた林尚立が中央政策研究室の秘書長に就任したことは留意すべきである。「王滬寧学生出任中央政研室秘書長」『明報』2017年7月7日。
28 王滬寧の研究の発展については、王紹光による整理がわかりやすい。王紹光「中国政治学三十年」17-19頁。
29 例えば、「盧梭政治思想的綿延 《社会契約論》読後札記」『読書』1981年、第12期、55-59頁、「馬基雅維利及其《君主論》」『読書』1983年、第3期、80-83頁。「拉斯維爾及其政治学理論」『国外社会科学』1983年、第9期、65-67頁、「美国政治学的系統分析学派」『国外社会科学』1985年、第1期、53-56頁、「西方政治学行為主義学派述評」『復旦学報(社会科学版)』1985年、第2期、93-98頁、「当代西方政治多元主義思潮評析」『社会科学』1986年、第4期、52-54頁、「《〈黒格爾法哲学〉批判》和馬克思主義政治学」『政治学研究』1987年、第5期、1-7頁。盧梭はルソー、馬基雅維利はマキャヴェリ、拉斯維爾はラスウェル、黒格爾はヘーゲルの中国語表記である。
30 1980年代後半に書かれた王滬寧の論文の多くで「歴史―社会―文化条件」という枠組が用いられている。例えば、王滬寧「革命後社会政治発展的比較分析」『復旦学報(社会科学版)』1987年第4期、76-82頁、王滬寧「中国政治―行政体制改革的経済分析」『社会科学戦線』1988年第2期、107-115頁、王滬寧「現代化進展中政治領導方式分析」『復旦学報(社会科学版)』1988年第2期、19-25頁、王滬寧「転変中的中国政治文化結構」『復旦学報(社会科学版)』1988年第3期、55-64頁、王滬寧「政治民主和政治穏態的相関分析」『政治学研究』1989年第1期、35-41頁。なお、王滬寧を紹介する多くの文章はこの「歴史―社会―文化条件」に加えて、王滬寧が頻繁に用いたフレーズとして「花を移して接木したり、苗を引っ張って成長させたりすることはできない」(「不能靠移花接木、也不能搞揠苗助長」、西側のモデルをそのまま輸入するべきではなく、焦って改革を過度に急ぐべきでもない。即ち、安定を第一に優先すべきという意味)、「民主政治を発展させるに当たって、我が国の現段階の条件を超えることはできない」などを紹介している。例えば、張暁霞「王滬寧:学者従政的典範」、維丁「新晋常委解析:伝奇王滬寧従国師到決策者」『多維新聞』2017年10月26日(URL: http://news.dwnews.com/china/news/2017-10-25/60019586_all.html 2018年5月17日閲覧)、高新「王滬寧思想的三大組成部分」『自由亜洲電台』2017年11月22日(URL: https://www.rfa.org/mandarin/zhuanlan/yehuazhongnanhai/gx-11222017124320.html 2018年5月17日閲覧)、Patapan, Wang, “The Hidden Ruler: Wang Huning and the Making of Contemporary China,” p.56など。しかし、いずれの文章もこれらのフレーズの出典を明記しておらず、また、筆者が入手し確認した王滬寧の文章にこれらのフレーズを発見することはできていない。
31 「中国の特色ある社会主義」という概念は王滬寧とは無関係に生まれたものであり、1982年の第12回党大会の開幕式において鄧小平が用いている。1987年の第13回党大会における趙紫陽の政治報告も「中国の特色ある社会主義の道路に沿って前進しよう」と題された。鄧小平「中国共産党第十二次全国代表大会開幕詞」『人民日報』1982年9月2日、趙紫陽「沿着有中国特色的社会主義道路前進 ―在中国共産党第十三次全国代表大会上的報告(1987年10月25日)」『人民日報』1987年11月4日。
32 王滬寧「革命後社会政治発展的比較分析」76-77頁。
33 王滬寧「現代化進展中政治領導方式分析」21頁。この論文は、近年再び注目を浴びており、ニューヨーク・タイムズの記事も王滬寧の思想を代表する論文として紹介している。Yufan Huang, “Xi Jinping Adviser Has Long Pushed for Powerful Leadership” New York Times, 29 September 2015 (URL: https://sinosphere.blogs.nytimes.com/2015/09/29/china-president-xi-jinping-advisor-wan-huning/ 2018年5月17日閲覧)。1980年代後半に上海の宣伝部門にいた魏承思によると、この論文はもともと1986年に執筆され、内部雑誌である『思想研究内参』第56期に掲載されたものだという。魏承思「従幕僚到政治局委員 王滬寧和新権威主義」。
34 王滬寧「政治民主和政治穏態的相関分析」。
35 「新権威主義」とは、1980年代後半に流行した考え方である。急速に民主化、自由化を進めるべきだとする考え方に対抗して、アジアの四小龍と呼ばれる香港、シンガポール、韓国、台湾などを念頭に、中央集権による政治秩序の安定を維持することで発展を実現することを強調する考え方であった。呉稼祥や蕭功秦などが代表的な論者として知られる。権威主義とは呼ばれるが、毛沢東時代の個人独裁政治からの脱却を目指した。Barry Sautman, “Sirens of the Strongman: Neo-Authoritarianism in Recent Chinese Political Theory,” The China Quarterly, No. 129 (1992), pp. 72-102, 蕭功秦「現代中国のインテリ層における思想の分裂およびその政治的影響」『激動する世界と中国-現代中国学の構築に向けて-』(2003年度国際シンポジウム報告書)、名古屋、愛知大学国際中国学研究センター、2004年、157頁(URL: http://iccs.aichi-u.ac.jp/archives/report/002/002_07_03.pdf 2018年5月17日閲覧)などを参照。
36 Patapan, Wang, “The Hidden Ruler: Wang Huning and the Making of Contemporary China,” p.56. 魏承思が王滬寧になぜ「新権威主義」という言葉を直接使わないのかと尋ねたところ、王滬寧は笑って「中国共産党はマルクス・レーニン主義という一つの主義だけを受け入れる」と答えたという。魏承思「従幕僚到政治局委員 王滬寧和新権威主義」。高新も王滬寧と「新権威主義」に関するコラムを書いている。高新は、「新権威」とはもともと「旧権威」たる毛沢東を否定して鄧小平の正統性を高める効果を持っていた言葉であったが、呉稼祥や蕭功秦らがそれを趙紫陽と関連づけたことで、鄧小平や陳雲ら存命中の革命世代指導者を旧権威として暗に批判することにつながってしまうため、政治に敏感な王滬寧は「新権威主義」を避けるようになったと分析している。高新「如今的習近平比当年的江沢民更需要王滬寧」『自由亜洲電台』2017年8月28日(URL: https://www.rfa.org/mandarin/zhuanlan/yehuazhongnanhai/gx-08282017135117.html 2018年5月17日閲覧)。
37 外部のいくつかの研究は、王滬寧を「新保守主義」の論者とみなしていた。Joseph Fewsmith, “Neoconservatism and the End of the Dengist Era,” Asian Survey, Vol. 35, No. 7 (1995) pp.635-651, Feng Chen, “Order and Stability in Social Transition: Neoconservative Political Thought in Post-1989 China,” The China Quarterly, No. 151 (1997) pp.593-613.
38 王滬寧「“文革”反思與政治体制改革」『世界経済導報』1986年9月26日。この新聞は、改革的な論調の記事を多く載せることで知られていた。1989年の第二次天安門事件につながる民主化要求運動の中で、上海市党委員会書記であった江沢民は『世界経済導報』の停刊(事実上の廃刊)を決定した。王滬寧の教え子で同僚でもあった夏明(現ニューヨーク市立大学教授)によると、当時多くの知識人が反対する中、王滬寧は『世界経済導報』の停刊に賛成したと言う。「三朝智嚢王滬寧助育『習思想』」『明報』。なお、ウェブ上に2012年3月に加筆されたとされる「“文革”反思與政治体制改革」の第5稿なるものが流布している。『世界経済導報』掲載の原文とある程度同様の論調ではあるが、こちらは公式的な媒体には一切掲載されておらず、信憑性のあるものではない。王滬寧「“文革”反思與政治体制改革」(2012年3月27日第5稿)『縦覧中国』2012年5月24日(URL: http://www.chinainperspective.com/ArtShow.aspx?AID=15840 2018年5月17日閲覧)。
39 第13回党大会における政治改革案の目玉だった党政分離や幹部人事制度改革についても王滬寧は別の論文の中で言及している。王滬寧「中国政治―行政体制改革的経済分析」114頁。1989年の第二次天安門以後、政治改革は停滞し、上述した政治体制の欠陥は今日の中国が依然として抱えている問題となっている。
40 王滬寧は中央―地方関係や行政体制改革についても多くの論文を発表している。例えば、王滬寧「中国変化中的中央和地方政府的関係:政治的含義」『復旦学報(社会科学版)』1988年第5期、1-8,30頁、王滬寧「集分平衡:中央與地方的協同関係」『復旦学報(社会科学版)』1991年第2期、27-36頁、王滬寧「論90年代中国的行政発展:動力與方向」『天津社会科学』1992年第5期、4-9,14頁、王滬寧「中国現代化必須実現行政体制的総体性転換」『探索與争鳴』1994年第1期、3-7頁、王滬寧「中国現代化必須実現行政体制的総体性転換(続)」『探索與争鳴』1994年第2期、7-10頁、王滬寧、陳明明「調整中的中央與地方関係 政治資源的開発與維護 ―王滬寧教授訪談録」『探索與争鳴』1995年第3期、33-36頁など。
41 王滬寧『美国反対美国』上海、上海文芸出版社、1991。
42 胡錦濤政権と習近平政権の政治リーダーシップに関する議論として角崎信也の論文が参考になる。角崎信也「習近平政治の検証④:集権のジレンマ 習近平の権力の現状と背景」(上)、(下)『China Report』Vol. 8, 9、日本国際問題研究所、2018年2月16日(URL: http://www2.jiia.or.jp/RESR/column_page.php?id=277, http://www2.jiia.or.jp/RESR/column_page.php?id=278 2018年5月17日閲覧)。
43 高新「中共高層只有王滬寧憂心“個人崇拝”沈渣泛起!」『自由亜洲電台』2017年8月14日(https://www.rfa.org/mandarin/zhuanlan/yehuazhongnanhai/gx-08142017134416.html 2018年5月17日閲覧)、高新「去年六中全会王滬寧提醒習近平禁止吹捧、従諫如流」『自由亜洲電台』2017年8月16日(https://www.rfa.org/mandarin/zhuanlan/yehuazhongnanhai/gx-08162017145756.html 2018年5月17日閲覧)、高新「習近平為什麼不喜歓“英明領袖”的封号?」『自由亜洲電台』2017年11月20日(URL: https://www.rfa.org/mandarin/zhuanlan/yehuazhongnanhai/gx-11202017132739.html 2018年5月17日閲覧)。
44 「習近平:加強和改善党対全面深化改革統籌領導 緊密結合深化機構改革推動改革工作」『新華網』2018年3月28日(URL: http://www.xinhuanet.com/politics/leaders/2018-03/28/c_1122605838.htm 2018年5月17日閲覧)。他の副主任は李克強と韓正である。委員会の弁公室主任の人事は発表されておらず、王滬寧が兼任しているかどうかは不明である。
45 このワーキンググループが成立したのは、2017年9月29日であり、その時点において王滬寧はまだ政治局委員であった。ワーキンググループの組長は当時全人代常務委員会委員長の張徳江であり、もう一人の副組長は当時中央弁公庁主任で2018年3月に全人代常務委員会委員長に就任した栗戦書であった。張徳江と栗戦書が、実際に憲法改正を行う全人代の責任者という立場からワーキンググループに参加したのに対して、王滬寧が内容と理論面での貢献を期待されたことは明らかである。「為中華民族偉大復興提供根本法治保障 ―《中華人民共和国憲法修正案》誕生記」『新華網』2018年3月12日( URL: http://www.xinhuanet.com/politics/2018lh/2018-03/12/c_1122527325.htm 2018年5月17日閲覧)。
46 過去数代の中央書記処の筆頭書記である劉雲山、習近平、曽慶紅、胡錦濤は、全国組織部長会議や全国組織工作会議に頻繁に出席してきた。このことから、中央書記処の筆頭書記が組織部門を管轄していると考えられて来た。しかし、昨年の党大会後の12月に開かれた全国組織部長会議に王滬寧が出席しなかったことから、王滬寧が組織部門を担当していないと考えられた。ただ、全国組織部長会議に政治局常務委員が出席しなかった事例は過去にもあるので、今後王滬寧が関連会議に出席し、組織部門を管轄していることを示す可能性がないわけではない。「陳希在全国組織部長会議上強調 為新時代中国特色社会主義偉大事業提供堅強組織保証」『新華網』2017年12月23日(URL: http://www.xinhuanet.com/2017-12/23/c_1122157258.htm 2018年5月17日閲覧)。
47 「王滬寧在工青婦科僑群団組織班子成員会議上強調 深入学習貫徹習近平新時代中国特色社会主義思想 扎実做好党的群団工作 動員広大群衆建功新時代」『人民日報』2018年1月14日(URL: http://politics.people.com.cn/n1/2018/0114/c1001-29763135.html 2018年5月17日閲覧)。
48 孫嘉業「王滬寧之謎」『明報』。
49 例えば、孫嘉業「書記処角色有変?」『明報』2017年11月8日、高新「王滬寧是否已被確定為下届国家副主席的唯一候選人?」『自由亜洲電台』2017年11月10日(URL: https://www.rfa.org/mandarin/zhuanlan/yehuazhongnanhai/gx-11102017131931.html 2018年5月17日閲覧)。
50 曽九平「党際外交回帰主調 王滬寧分管対朝鮮外交」『多維新聞』2017年12月15日(URL: http://news.dwnews.com/global/news/2017-12-14/60029825.html 2018年5月17日閲覧)。
51 斉慕丹「王滬寧接送金正恩 中国対朝外交重新定調」『多維新聞』2018年3月29日(URL: http://news.dwnews.com/global/news/2018-03-29/60048822.html 2018年5月17日閲覧)。
52 「習近平同朝鮮労働党委員長金正恩在大連挙行会晤」『新華網』2018年5月8日(URL: http://www.xinhuanet.com/2018-05/08/c_1122802575.htm 2018年5月17日閲覧)。

(2018-05-31)

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