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コラム/レポート

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『China Report』Vol. 36
諸外国の対中認識の動向と国際秩序の趨勢⑬:
フィリピン・ドゥテルテ政権の『国家安全保障戦略2018』と対中認識


はじめに
 1990年代半ば以降、中比両国のあいだで南沙諸島(スプラトリー諸島、フィリピンでは「カラヤーン群島」)や中沙諸島の島嶼および岩礁の領有権をめぐる争いが続いてきたが、2016年7月の国連海洋法条約(UNCLOS)に基づく仲裁裁定は、中国の「九段線」に囲まれた海域に対する歴史的領有権の主張を無効とし、フィリピン側の主張を全面的に認める内容となった1。しかし中国はこの後もさらなる軍事施設建設を進め、フィアリークロス礁、スービ礁、ミスチーフ礁の「ビッグスリー」と呼ばれる島嶼などは海上要塞へと変貌している。しかし2016年6月30日に大統領に就任したロドリゴ・ロア・ドゥテルテ大統領はアキノ前政権の親米路線から対中融和へと大きく舵を切り、今なお南シナ海海域でフィリピン人漁民らへの中国による威嚇が続くにもかかわらず、南シナ海問題を「棚上げ」している。
 ドゥテルテ大統領は対中接近の大きな要因として第一に地政学的理由、そして第二にアメリカの対応に対する不満を挙げている。彼はアメリカには南シナ海問題でフィリピン防衛の意思はないと断じ、フィリピンには中国と戦争する力がない以上、中国に対して強硬な姿勢をとればフィリピンにとって大きな損失となると主張し、ASEANと中国との「行動規範〕作成交渉に関しても「騒がないように」と各方面に協力を要請している2
 本稿ではドゥテルテ政権の対中接近政策と中比経済関係の深化を、『国家安全保障戦略2018』と中比共同宣言の分析をとおして検討する。

1 フィリピン『国家安全保障戦略2018』
 フィリピン政府がその国家安全保障に関する政策や課題や行動計画を内外に発表した重要文書としては、『国家安全保障政策』(National Security Policy, NSP)と『国家安全保障戦略』(National Security Strategy, NSS)の両文書がある。
 アキノ政権において初めて策定された『NSP 2011-2016』では、中国の台頭による国際関係の変容や南シナ海での領有権問題が強く意識され、領土保全や海洋安全保障など対外的安全保障にかかわる課題が重視された。しかしドゥテルテ政権が発表した『NSP 2017-2022』では「国家安全保障」は「国民の福祉と幸福と生活様式、政府とその制度の在り方、領土保全、主権国家としての尊厳、および本質的な価値観が、守られ拡充されていくこと」と定義され、まず国内の法秩序および正義の実現や反政府勢力の鎮圧、社会的経済的脅威に対する取り組みなど国内問題の解決の必要性が強調されている。そして経済的繁栄と国家安全保障との一体性や、国内反政府勢力の鎮圧と同時に反政府勢力が拡大する根本原因を解決する必要性が強調されるなど、軍事的側面だけでなく民生の安定と繁栄が国家安全保障に不可欠であると謳われている3。この二つの文書の比較から、アキノ・ドゥテルテ両政権の国家安全保障問題における力点の相違が読み取れよう。
 2018年5月にドゥテルテ政権が発表した『国家安全保障戦略(National Security Strategy; NSS) 2018』4は、『NSP 2017-2022』での「国家安全保障」の定義に基づき、さらに詳細に国益と国家安全保障上の課題と行動計画を列挙したものである。ここではフィリピンの「国益」として優先度の高い順に1)自由、公共の安全、国民の福祉の保護、2)共産主義者の反乱や過激組織による暴力・テロリズムを含むすべての内戦の終結、3)国家主権の維持と領土保全、4)国家主権と民族自決に基づく自立的な外交政策の追求、5)包括的な経済成長と持続的発展、6)犯罪、不法薬物、伝染病、サイバー攻撃、大量破壊兵器からの国民の保護、7)国土の非核状態の維持、8)環境保護、9)社会的統合と国民統合の促進、の9項目が列挙されている5。この国益に基づく「国家安全保障政策」を遂行するための具体的なアジェンダ12カ条とそれに基づく詳細な行動計画109項目が列挙されている。それらを大まかにまとめたものが表1である。

(表1)国家安全保障アジェンダ12カ条6


 こうしてみると、『NSS 2018』には国内の平和と繁栄や国民の暮らしの向上を図るための施策が最重要課題として列挙されていることがわかる。第1条では国内治安対策、第2~4条と第7条では国民生活の向上と繁栄、第8条と第12条はそのための資源とインフラ整備の各方面において推進すべき施策が掲げられている。いわゆる伝統的な国防という意味での安全保障策が語られるのは、第5条、第9条、第10~11条であるが、自衛力の整備に加えて多角的な外交関係の構築が強調されてはいるが、特定の国への言及はなされていない。
 つまりこの『NSS 2018』の最大のメッセージは、「国家安全保障」のためには何よりもまず国内の平和と安定と繁栄を実現する必要があり、政治経済社会的なガバナンスの向上とあらゆるセクターの努力と協力無くしては実現不可能であること、そして対外関係も軍事面だけでなく国民生活の多様な課題を解決し可能性を開拓する必要性と調和させるべきであること、という点であろう。そして少数者やムスリムや先住民への配慮やフィリピン国民の歴史的遺産や自尊心の尊重を説いている点にもドゥテルテ政権の特徴が見られる。
 このような安全保障観のもとで中国との関係を模索するとき、南シナ海での領有権問題のみに目を向けることは不可能である。以下、ドゥテルテ政権の具体的な政策と中国との関係を見てみたい。

2.ドゥテルテ政権のBuild, Build, Build政策7
 ドゥテルテ政権が麻薬撲滅対策・政府の腐敗防止・反政府勢力対策といった国内治安の向上と並んで力を入れているのは「Build, Build, Build計画」(以下「BBB計画」と記す)と呼ばれる、インフラ整備を推進して雇用と繁栄をもたらす政策である。近年のフィリピン経済の高成長率にもかかわらず、若者の間の高い失業率やミンダナオ地域やビサヤ地域など地方での40~50%にのぼる高い貧困率は国内でも問題視されている8。こうした状況を改善することは国家安全保障戦略においても優先課題の一つと見なされている。
 BBB政策には行政府から6つの官庁が関与している。予算管理省と財務省がインフラ整備のための財源確保とその執行状況を監督し、国家経済開発庁(NEDA)があらゆる開発計画の認可や監督を行う。高速道路の建設を管轄する公共事業道路省(DPWH)は、BBB計画のもとでルソン島内のマニラ首都圏と南北地方都市を結ぶ高速道路やヴィサヤ地域の多数の島嶼間を結ぶ道路・橋梁、ミンダナオ島における幹線道路や橋梁などの建設計画など、24件の道路建設プロジェクトを計画・遂行しつつある。鉄道と空港の整備を担う運輸省(DOT)輸省では、マニラ首都圏内のメトロ拡充やルソン島南北鉄道の延線計画、ミンダナオ鉄道の建設やセブ島バスターミナル建設計画、各主要島嶼における空港の建設や整備を含む31件のプロジェクトを管轄する。さらに基地転換開発公社(BCDA)は、これまでのフォート・ボニファシオ基地跡地へのグローバルシティ建設に続き、現在はクラーク空軍基地跡地における最先端AI技術を投入したビジネスパーク「ニュー・クラーク・シティ」の建設を進めて2020年の完成を目指している。これは都市建設の総事業費が140億米ドルに上るとされる大型プロジェクトであるほか、マニラ首都圏やその他の都市との間を結ぶ道路網・鉄道網の整備も計画され、BBB計画関連省庁がすべて関わる大事業となっている9
 フィリピンでは以上の計画を含め次の10年間で1800億米ドルのインフラ開発が計画されているが、国内資金のみでは賄いきれず多くの外国資本に依存する。日本も2017~2022年度のプロジェクトに7000億円強の投資を予定しているが、BBBプロジェクトのうち半数近くに中国が参加しているという見込みもある。次節では最近の中比間の経済協力について具体例を見ていきたい。

3.中比共同宣言と経済関係の深化
 2018年11月20日から21日にかけて中国の習近平主席がフィリピンを訪問し、ドゥテルテ大統領とともに「中比共同宣言」発表した。そこでは両国の友好関係とさらなる発展のために信頼関係と包括的戦略的協力関係を築いていくことが宣言され、2022年までの間の包括的な貿易経済開発協力(インフラ整備/金融/情報通信/海洋天然資源の共同開発/技術面での協力、および各省庁間協力交流推進等)が謳われている。さらに、フィリピンが国際社会から人権侵害として非難を受ける麻薬撲滅戦争を含め、フィリピンの国内鎮圧のための努力に対して中国は全面的な理解と共感を示し、南シナ海領有権問題についてもそれのみが両国関係を規定するにあらず、より相互利益となる他の関係を重視しようという点での合意を宣言している。さらに国際法の原則をともに尊重することを両国が確認した点はフィリピンにとって筋を通すうえで大きなメリットであった10
 さらにこの共同宣言で謳われた経済開発協力を具体化するために29の合意文書(MOU)が両国間で交わされた。そこでは一帯一路構想の枠組みでの中比協力が約束されたほか、BBB政策の開発プロジェクトや貿易・金融協力、政府間交流、そして南シナ海における石油・ガス田開発に関して、極めて具体的に個々のプロジェクトごとにMOUが交わされた11。MOUの交換のみでは実現可能性は未定であるが12、少なくとも両国の極めて強い協力推進の意欲がうかがえる。
 こうした中国資本のフィリピン経済への浸透に対して、フィリピン国内には当然ながら批判的な声もある。とくに中比間の領有権紛争が続く南シナ海での海底石油ガス田開発協力や、情報通信分野でのインフラ整備への中国資本の参入については、セキュリティの観点からロニ・ロブレド副大統領や野党議員らから反発が起こっている。しかしフィリピンの電力事情やインターネット網整備の遅れを背景にこれらの分野での開発推進を図る政権側は、中国との協力が現実的な政策と考えている13。国内平和と繁栄のための開発を進めること自体が「国家安全保障」の根幹にあると考える同政権にとって、共同宣言が述べたように「南シナ海問題のみが両国関係のすべてではない」という姿勢で対中関係を構築するほかにないのである。

4.フィリピン世論調査 by Social Weather Stations
 最後にフィリピンの外交政策に関する世論調査を見てみたい。
 南シナ海領有権問題では仲裁裁定でフィリピンが勝利したものの、現実には中国による軍事的プレゼンスがますます高まっているが、ドゥテルテ政権の棚上げ政策に対して8割以上の国民は何らかの対策を講ずるべきと考えていることがうかがえる(グラフ1)14



 一方アメリカに対しては、在比米軍の完全撤退から四半世紀を経て、比米相互防衛条約(MDT)の存在をこの世論調査で聞くまで知らなかったと答えた人が回答者の過半数を占めていることに注目したい(グラフ2)。にもかかわらず有事の際にはフィリピンを防衛してくれると考えているとの回答はフィリピン全体で6割を超え、アメリカに対する信頼度は依然として高いままである(グラフ3)15。大統領や閣僚らが有事の際のアメリカの関与について悲観的な見方をしているのとは対照的である。




フィリピン国民の日・米・中に対する信頼度も以前からの傾向が続いてはいるが、対中信頼度が南シナ海での衝突や仲裁裁定があった2015-16年頃から改善が見られ、逆に対米信頼度は親米政策をとっていたアキノ政権期の頃よりも低下している(グラフ4)。16



 そしてドゥテルテ大統領への支持率は、就任初年度に比して3年目にはやや低下しているとはいえ、依然として非常に高い支持率を誇っている(グラフ5)17。ミンダナオでは特に合計支持率は80%台後半から90%台という高さを維持している。また、学歴による支持率の際はほとんど見られず、小学校未完了から大学卒以上までほぼ均等な支持率を見せている18。中国との南シナ海問題には懸念を持ちつつも、フィリピン国内の高成長と国内開発、および反政府勢力の掃討に力を入れているドゥテルテ政権を国民は概ね支持しているということができよう。



むすびにかえて
 フィリピンの「国家安全保障」の最大の規定要因は国内の政治的社会的安定と経済繁栄であり、それらが実現したあとにはじめて対外的安全保障も可能になるという思考枠組みがフィリピン政府の国内外政策の根幹を形成している。そのため国家の最優先課題は国内の不安定要因となっている反政府勢力の鎮圧や公共の安全、法の徹底、そして何よりもそれらと表裏一体の国民の生活の向上と繁栄である。近年の中国の南シナ海における軍事的台頭とアメリカの南シナ海問題に対する消極姿勢によりフィリピンの対外的安全保障は悩ましい立場に置かれているが、中国の脅威に対してフィリピンが軍事的に対立することは現実的に不可能である。むしろ中比共同宣言が謳うように、南シナ海領有権問題での対立は中比関係の一部にすぎないと捉えて良好な中比関係を構築することを主軸とするほうが、より大きな国益に合致するとドゥテルテ政権は認識している。こうした外交政策にもちろん批判はあるものの、高い支持率を背景に今後もドゥテルテ政権は『NSS 2018』に掲げた具体策を推進していくであろうし、中国も今後はフィリピン国民の間の信頼度を高めるための文化交流や協力関係を進めようと企図するであろう。このような中比関係の深化の流れを変えられるのは、日米をはじめとして諸外国がどれだけフィリピンの国情や政策に共感して関係構築を進めていけるかによると思われる。





1 フィリピンの国連海洋法条約に基づく仲裁要請および裁定の内容に関しては以下を参照した。河野真理子「南シナ海仲裁の手続きと判断実施の展望」『国際問題』No.659(2017年3月)、12-24頁。
2 Marlon Ramos, “PH urged to unite with rival claimants in opposing China’s militarization,” INQ.net, May 22, 2018, http://globalnation.inquirer.net/167163/ph-urged-unite-rival-claimants-opposing-chinas-militarization#ixzz5GFlWxarA (2018年5月23日)
3 National Security Policy 2011-2016: Securing the Gains of Democracy, National Security Council of the Republic of the Philippines, undated (issued by President Aquino’s Memorandum Order No.6, October 21, 2010). http://www.nsc.gov.ph/index.php/national-security-policy-2011-2016 (November 23, 2018); National Security Policy 2017-2022: for Change and Well-being of the Filippino People. National Security Council of the Republic of the Philippines, issued on April 4, 2017. http://www.nsc.gov.ph/attachments/article/NSP/NSP-2017-2022.pdf (November 23, 2018)
4 National Security Strategy 2018: Security and Development for Transformational Change and Well-Being of the Filipino People, issued on May 16, 2018,
http://www.officialgazette.gov.ph/downloads/2018/08aug/20180802-national-security-strategy.pdf. (2018年11月24日)以下、NSS 2018と記す。
5 Ibid., pp.12-13.
6 Ibid., pp. 17-47.
7 もしくはBuild, Build, Build-Jobs, Jobs, Jobs project。 Build Build Build Transparency Portal, http://www.build.gov.ph/(2018年12月23日).
8 “World Economic Outlook,” International Monetary Fund HP, https://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2018/02/weodata/index.aspx
Table 1. First Semester Per Capita Poverty Threshold and Poverty Incidence among Families, by Region and Province: 2006, 2009, 2012 and 2015, Philippine Statistical Authority,
https://psa.gov.ph/poverty-press-releases/nid/63819(2019年2月28日)。
9 https://bcda.gov.ph/(2019年2月28日)、
10 “Full Text of China-Philippines Joint Statement,” Belt and Road Portal, November 21, 2018, https://eng.yidaiyilu.gov.cn/zchj/sbwj/72453.htm 表1は宣言の内容を筆者が簡略にまとめたもの。 (November 23, 2018)。フィリピンの麻薬撲滅戦争については、これまでに数千人にものぼる人々が不当に殺されているとして、2017年3月、国際刑事裁判所(ICC)にドゥテルテ大統領と政府議会関係者らが告訴され、2018年3月以降は予備調査が行われてきたが、ドゥテルテ政権はICCからのフィリピンの脱退を表明し、2019年3月には正式に脱退する。
11 Ibid.
12中比共同宣言発表と同日の2018年11月21日、日本も日本貿易振興機構(JETRO)とBCDAが中心となりマニラで「クラーク基地跡地開発関連都市開発セミナー」を開催し、クラーク基地跡地開発に関心を持つ多数の日本企業関係者が出席した。「フィリピン・クラーク基地跡地開発関連都市開発セミナーを開催」日本貿易振興機構HP, https://www.jetro.go.jp/jetro/topics/2018/1811_topics5.html (2019年3月1日)。また日中以外にもフィリピンへの投資に関心を寄せる国は多い。
13 Leila B. Salaverria, “PH, China to Set Up Panel for Joint Exploration Deal,”INQ.net, November 23, 2018, https://globalnation.inquirer.net/171606/ph-china-to-set-up-panel-for-joint-exploration-deal#ixzz5Xem5WHw0 (November 23, 2018); Louie Diangson, “What We Know about Mislatel,” Yugatech Philippine Technology News, November 12, 2018, https://www.yugatech.com/internet-telecoms/what-we-know-about-mislatel-the-3rd-telco-player/#dXjl8bYhXoRdH2o2.99 (November 28, 2018)
14 Social Weather Stations, “Third Quarter 2018 Social Weather Survey: Pinoys Maintain Anti-Chinese Stance on West Philippine Sea Issue,” November 20, 2018, https://www.sws.org.ph/swsmain/artcldisppage/?artcsyscode=ART-20181119235355&mc_cid=4b4c38e164&mc_eid=543d6650f1,” (November 22, 2018) グラフ1は同記事のデータから筆者が作成。
15 Social Weather Stations, “Second Quarter 2018 Social Weather Survey Special Report: 61% of Pinoys believe in the PH-U.S. Defense Commitment,” December 12, 2018,  https://www.sws.org.ph/swsmain/artcldisppage/?artcsyscode=ART-20181212104148
(2018年12月18日)グラフ2、グラフ3は同記事のデータから筆者が作成。
16 Ibid. グラフ4は同記事のデータから筆者が作成。
17 Social Weather Stations, “Third Quarter 2018 Social Weater Survey: Net Trust in Rody Dueterte rises to Very Good +62, ” October 27, 2018, https://www.sws.org.ph/swsmain/artcldisppage/?artcsyscode=ART-20181027115939  (2018年12月15日)。グラフ5は同記事のデータから筆者が作成。
18 Ibid.


(2019-03-31)

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