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『China Report』Vol. 16
中国の国内情勢と対外政策の因果分析②:
第一期習近平政権下における「一強体制」成立の経緯


高原明生(東京大学大学院教授/日本国際問題研究所上席客員研究員)



 2017年10月、中国共産党第19回全国代表大会(通称党大会)、そして踵を接して開かれた新中央委員会の第1回総会を経て、第2期習近平政権が発足した。国家機関の正式な人事は2018年春の全国人民代表大会(全人代)になる。だが、主なポストは前年のうちに内定済みだったといって間違いないだろう。
 党大会で、習近平は自らの名前を冠した思想を党の行動指針とすることに成功し、新時代が到来したことを宣言した。毛沢東の時代に中国は立ち上がり、鄧小平の時代に豊かに成り始め、自分の時代に強くなり始めたと述べたのである。文化大革命の反省を踏まえ、鄧小平とその仲間たちは1982年に党主席制を廃止した。それ以来実施されてきた集団指導制は第19回党大会において形骸化し、ポスト毛沢東時代は終焉したと言ってよいのではないかと思われる。中国政治の大きな変化は、どのようにしてもたらされたのだろうか。本稿では、習近平「一強」体制が出現した要因を分析し、その経緯を振り返る。

第一期習近平政権における権力の集中

 当初、習近平は比較的弱い指導者になるのではないかと一般に思われていた。前のトップ・リーダーだった江沢民や胡錦濤は、それぞれ第一機械工業部や上海、あるいは共産主義青年団といった有力な部門や地方で培った人脈を有していた。それに対し習近平は地方勤務が長く、頼りになる組織的な基盤を中央に持っていなかった。
 だが、2012年に総書記の座に就いて数年の間に、習近平は前の二人の総書記よりも強い権威と権力を党内に樹立することに成功した。そこに働いた要因には以下が含まれる。
 第一に、習近平を支えたのは「紅二代」あるいは「太子党」と呼ばれる人々であった。どちらの言葉も、革命を率いた指導者たちの子弟と定義される。だが、「太子党」という時には「自分たちの政治的、経済的利益のために連携している集団」というニュアンスを含むのに対し、「紅二代」には「父母が戦った革命の精神を継承する者たち」という肯定的な意味合いが感じられる。習近平はかつて副総理を務めた習仲勲の息子であり、中央規律検査委員会書記に任命された王岐山は政治局常務委員だった姚依林の娘婿である。また、国家主席を務めた劉少奇の息子である劉源をはじめ、人民解放軍には「紅二代」の軍人が多い。彼らがいわば創業家一族として共産党の支配体制に強いオーナーシップ意識を持ち、習近平を支えて江沢民や胡錦濤といった「雇い人」が実現できなかった体制の立て直しに乗り出したのであった。
 第二に、「紅二代」が反腐敗という梃子を有効に使ったことが挙げられる。彼らは強い使命感を持って大胆に「大虎退治」に乗り出した。江沢民との関係が深く、公安担当の政治局常務委員を務めた周永康や、中央軍事委員会副主席だった郭伯雄と徐才厚、そして胡錦濤の直系の令計画などの大物を次々と汚職腐敗の廉で打倒していった。反腐敗キャンペーンが権力闘争の手段にもなっていたことは間違いない。
 第三に、2013年秋の中央委員会第3回総会以降、習近平は党内に新たな組織をつくるという手段により自分の指揮権を強化することに成功した。同総会のテーマは全面的に改革を深化することであった。そこで習は、中央全面深化改革領導小組、国家安全委員会(後に中央国家安全委員会として成立)など、多くの部門に跨る雨傘型の上部組織を作り、その長に就くことを決定した。つまり、集団指導制の下で他の常務委員が分掌している部門(例えば国内治安や社会管理)に対し、自分が指揮命令することのできる制度を新設したのである。
 第四に、ある程度の権力の集中を容認する考えが党内にも存在していた可能性がある。胡錦濤総書記に就任した際、江沢民は「その場を取り仕切る人物が必要」であり、「留任して胡錦濤を助けるのだ」と語って、中央軍事委員会主席の座に残留した1。その結果、二つの党中央がある、と一部で称された事態が発生して指導部内の統制が乱れた。また、集団指導制の弊害として、縦割りの部門が「独立王国」化し、腐敗が進みやすく、全体の調和がとりにくい状況があった。恐らくそうした問題に関する認識もあって、胡錦濤は総書記のみならず中央軍事委員会主席の座をも同時に習近平に譲ったのであろう。
 以上の諸要因によって、全般に緊張した雰囲気の下で習近平への権力の集中が進んだ。しかし、当然のことながら、その過程に何の障害もなかったわけではなかった。

激動の2016年――習近平の権威と権力への挑戦

 2015年末、習近平は人民解放軍の大規模な改革を発表した。そしてそれとほぼ同時期のことだが、2016年1月より、習近平を党中央の「核心」と呼ぶ地方指導者が現れた。鄧小平は、総書記の権威を高めるべく、江沢民を第三世代中央指導部の「核心」だと称したが、江沢民は次の胡錦濤を「核心」と呼ばせなかった。その経緯を知る幹部たちは、習近平がその称号を得ることで自らの権威を固めようとしていると理解した。いわば踏絵を踏まされる形で、2月末までに全国の省の3分の2ほどのトップが「習近平同志という核心を擁護する」ことを表明した。ところが、その数はそれ以上には増えず、この試みは頓挫した。そのことは、習近平の権威を大きく傷つけたと、北京の党幹部たちの間では認識された2
 やはり2月には、習近平のメディア統制強化に対し、任志強という不動産王が、メディアは人民の意向を反映すべきだと自身の人気ブログで正面から批判した。すると、一部のメディアから「反党分子」のレッテルを貼られ、アカウントを閉鎖される事態となった。ところが、暫くして任氏への批判はぴたりと止んだ。騒動の最中の3月1日、中央規律検査委員会は「千人の諾諾は一士の諤諤に如かず」(千人の服従は、一人の直言に及ばない)と題した記事をホームページに掲げたが、これは習近平に対する諫言だとも解釈できた3
 極めつけは、3月4日未明、習近平の辞職を勧告する公開書状が公式メディアに分類されるウエッブサイトに掲載されたことである。そこには、権力の独占や経済運営への干渉、外交上の孤立、香港政策と台湾政策の失敗や人民の目線を忘れたメディア統制、反腐敗による官僚の不作為など、諸方面の習近平の失政が並べ立てられていた4。さらに、全国人民代表大会が翌日開幕したが、政治局委員をも務める大物である張春賢新疆ウイグル自治区党委書記がその会期中に記者会見を開いた際、「習近平のリーダーシップを支持するか」と尋ねられて、思わず「また話そう」と答えた一幕もあった5。「中国政治は激動期に入った」と北京の幹部たちは認識した6。5月上旬には、経済政策をめぐる高層の意見の不一致も露呈した7
 だが、2016年の後半には、習近平が巻き返しに成功した。8月には張春賢が新疆ウイグル自治区書記の座から解任され、闘争の帰趨が決したという印象を世間に与えた。秋の中央委員会総会において、習は遂に「党中央の核心」の称号を得た。習近平が浙江省や福建省で働いていた頃の部下が次々と地方の要職を占めるようになり、政局の潮目は明らかに変化した。その勢いを維持したまま、習は2017年の党大会を迎えることになったのである。




1 Robert Lawrence Kuhn, The Man Who Changed China: The Life and Legacy of Jiang Zemin (Chinese Edition), Shanghai, Shanghai Translation Publishing House, 2005, p. 436.
2 北京における聴き取り、2016年2月。
3 雷斯「千人の諾諾は一士の諤諤に如かず」、『中国紀検監察報』2016年2月29日〈http://csr.mos.gov.cn/content/2016-02/29/content_28043.htm〉を、中央規律検査委員会のウエッブサイトが翌日転載したもの。同委員会書記の王岐山は、3月2日の政治協商会議の開幕式の際、ひな壇の上で習近平に話しかけた。これは、二人の仲にひびが入ったわけではないことを示すパフォーマンスだったと思われる。
4 「忠誠党員促習近平辞職的公開信(全文)」Creaders.net,
http://news.creaders.net/china/2016/03/05/1647666.html〉。
5 「被問是否支持習近平領導 張春賢回答:再説吧」ChinaGate, 〈http://www.wenxuecity.com/news/2016/03/10/5044871.html〉。
6 東京における聴き取り、2016年4月。
7 「開局首季問大勢――権威人士談当前中国経済」、『人民日報』2016年5月9日1面〈http://politics.people.com.cn/n1/2016/0509/c1001-28333725.html〉。

(2018-03-30)

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