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連載企画:パレスチナ政治を読み解く鍵(4)
―パレスチナの世俗的解放運動


横田 貴之(研究員)



パレスチナにはいくつかの解放運動組織がありますが、これら緒組織を活動理念や主張に着目していると、世俗的なナショナリズムに基づくものとイスラームに基づくものとに大きく分けることができるでしょう。

前者の多くはアラブ・ナショナリズム高揚期の1950-60年代に結成され、ファタハパレスチナ解放人民戦線(PFLP)などの組織が現在に至るまで活動を行っています。前回の用語解説では、パレスチナ解放機構(PLO)を「パレスチナ・ゲリラなどの諸組織の連合体であり、諸組織の上に大きく広がる傘」と言い表しましたが、世俗的なナショナリズムに基づく解放運動の多くは、PLOのメンバーとして活動を行ってきました。一方、後者は1980年代以降に登場し、1987年に始まった第一次インティファーダ(住民蜂起)期に勢力を伸張させました。これらイスラームに基づく解放運動はPLOとは一定の距離を置いた活動を行ってきました。

今回の用語解説では、世俗的なナショナリズムを活動の基礎に置いている解放運動について、主要な組織の概要を見てゆきます。



(1)ファタハ(正式名称:パレスチナ解放運動)

世俗的なナショナリズムに基づく解放運動で最大の組織です。1957年、クウェートで技師として勤務していたアラファートは、ハリール・ワズィール(アブー・ジハード)、サラーフ・ハラフ(アブー・イヤード)らとともにファタハを結成しました。1965年にパレスチナ・ゲリラとして初めてイスラエル攻撃を実施し、1968年の「カラーマの戦い」ではイスラエル軍の撃退に成功しました。この勝利により、パレスチナ人の間ではファタハの人気が高まり、最大のゲリラ組織へと成長しました。1969年には、アラファートがPLO議長に就任し、ファタハはPLOの主力をなすゲリラ組織、およびPLO内での最大組織として、対イスラエル武装闘争を牽引しました。

しかし、1970年にヨルダン軍との軍事衝突(「黒い九月事件」)によりアンマンから追放され、1982年にはイスラエル軍のレバノン侵攻によりベイルートからチュニスへ本部を移しました。この結果、対イスラエル武装闘争の根拠地を喪失することとなりました。これ以降はイスラエルとの二国共存路線を主導し、1988年にアルジェで開催された第19回パレスチナ国民評議会(PNC)での「パレスチナ国家独立宣言」を経て、1993年のオスロ合意に至りました。

アラファートは、翌年のパレスチナ自治政府(PA)発足とともにパレスチナ自治区へ帰還しました。1996年には第1回パレスチナ立法評議会(PLC)選挙が実施され、ファタハはこの選挙で88議席中55議席を獲得する勝利を収めました。その後は、PLC与党として初代大統領アラファート(在任1996~2003年)、第二代大統領アッバース(在任2004年~)の両政権を支えてきました。しかし、2006年1月の立法評議会選挙ではハマースに破れ、PLC第一党の地位を失うこととなりました。しかしながら、ファタハの勢力は依然として強く、政権を獲得したハマースとの武力衝突が頻発しました。ハマースとの間で祖国統一政権樹立などの対立解消に向けての試みが見られましたが、2007年6月には大規模な武力衝突に至り、ハマースがガザを制圧する事態となりました。両者の対立は今なお解消されていません。

なお、ファタハが主導してきたオスロ合意以降の和平プロセスは、ヨルダン川西岸・ガザ地区にパレスチナ国家を樹立する「ミニ・パレスチナ国家」構想に基づくものであり、ハマースなどのパレスチナ全土解放構想とは異なります。また、組織内には、「アル=アクサー旅団」などの軍事組織を抱えています。



(2)パレスチナ解放人民戦線(PFLP)

1967年にジョルジュ・ハバシュを中心に結成されたPLO内反主流派の中心的組織で、マルクス・レーニン主義を掲げる左派の代表的組織です。1970年代のハイジャック作戦やイスラエルへの直接攻撃(ロッド空港襲撃事件など)に多く関与する急進的な組織として知られました。1982年のイスラエル軍のレバノン侵攻による活動拠点の喪失や、冷戦終結、ソ連解体によって、往時の勢力を失ったとされています。当初、ファタハ主導の和平プロセスに反対し選挙をボイコットしていましたが、2006年PLC選挙には「殉教者アブー・アリー・ムスタファー」の選挙名簿名で参加し、ハマース、ファタハに次ぐ3議席を獲得しました。



(3)パレスチナ民主解放戦線(DFLP)

1968年にPFLPから分派した左派武装組織で、マルクス・レーニン主義を掲げました。階級闘争を通じて民族解放は達成できるとして、活動を行っていました。PLO内では、改革推進勢力として体制内野党の立場を取っていましたが、冷戦終結を契機に勢力は衰退したとされます。2006年PLC選挙には、パレスチナ人民党、パレスチナ民主連合、無所属候補者と連合し、「オルタナティヴ」の名簿名で参加しました。この結果、「オルタナティヴ」は全国比例区で2議席を獲得しました。



(4)パレスチナ解放人民戦線総司令部(PFLP-GC)

1968年にPFLPから分派した左派小組織で、シリア政府の支援の下、ダマスカスを拠点にスイス航空機爆破事件(1970年)などの諸事件を起こしたとされます。レバノンにも活動拠点を有していましたが、1982年のイスラエル軍のレバノン侵攻によって拠点を喪失し、また冷戦終結後はその勢力は衰退したとされます。



(5)パレスチナ人民党(PPP)

1919年に結成されたパレスチナ共産党が、パレスチナの労働組合を活動基盤として、1982年にバシール・バルグーティーを中心に再結成されたものです。1987年にPLOに加入しました。1991年、ソ連・東欧解体を契機に党名を現在のパレスチナ人民党に改名しました。2005年大統領選挙に参加し、同党のバッサーム・サールヒーが2.67%を獲得しました。2006年PLC選挙には、DFLP、パレスチナ民主連合、無所属候補者と連合し、「オルタナティヴ」の名簿名で参加しました。



(6)パレスチナ民主連合(Fida)

1990年、ヤースィル・アブドゥッラブフを中心にDFLPから分派した左派政治組織です。和平プロセスを支持してきました。2006年PLC選挙には、DFLP、パレスチナ人民党、無所属候補者と連合し、「オルタナティヴ」の名簿名で参加しました。



本連載企画について-はじめに


(2008-02-04)

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