ホーム > 研究活動

研究活動

戻るトップページ

フドナ(停戦):法学的定義から見るハマースの含意


森山央朗(研究員)


イスラームに基づいて、「シオニスト占領者(イスラエル)」からパレスチナ全土を解放することを目指すハマースは、イスラエルの承認を拒否し、ガザ地区を拠点にイスラエルと激しい闘争を続けている (1)。しかしその一方で、ハマースはイスラエルに対してしばしば停戦を提起し、交渉の呼びかけも行ってきた。

こうした停戦に対して、ハマースは「フドナhudna」というアラビア語の単語を充てる。この「フドナ」とはどのような含意を持つ言葉で、イスラーム法上どのように規定されてきたのであろうか。本稿では、「フドナ」という言葉のイスラーム法学上の定義を解説することを通して、ハマースが「フドナ」という言葉にどのような含意を込めているのかを考察することとしたい。

まず、フドナの言語的定義から述べよう。「フドナhudna」とは、「平静」「静かさ」といった意味を表す語根、H-D-Nから派生し、「静めること」「静かにさせること」を原義とする。そこから転じて、騒乱を静めること、戦闘行為の沈静化、停戦を意味するようになった。停戦という意味でのフドナの使用例は古く、8世紀中葉に成立した現存最古の預言者ムハンマド(632年没)の伝記に見いだすことができる (2)。それは、628年にムハンマドがマッカ(メッカ)の多神教徒と、マッカ近郊のフダイビヤで結んだ停戦協定を指して、「フドナ・アル=フダイビヤ」、すなわち、「フダイビヤの停戦」と呼ぶことである。

多神教が優勢なマッカにおいて、610年頃から神(アッラー)の預言者として、多神信仰と偶像崇拝を否定し、神への帰依(イスラーム)を説き始めたムハンマドは、激しい迫害に直面した。そのため、622年に信徒(ムスリム)を伴ってマディーナ(メディナ)に移住(ヒジュラ)し、そこにイスラーム共同体(ウンマ)を建設した。同時に、マッカの多神教徒に対する聖戦(ジハード)を開始し、627年までに3回の大規模な会戦 (3) を繰り返すものの、最終的な勝敗は決していなかった。そうした状況の中で、ムハンマドは、夢のお告げに従ってマッカのカアバ神殿に巡礼することを決意し、約1000人の信徒を率いてマディーナを出発した。当時、カアバ神殿への巡礼は何人であっても妨害されないという慣習があったため、戦闘の準備をせずに、マッカを支配する多神教徒に対して、巡礼としてマッカに一時逗留することを求めた。しかし、多神教徒は警戒し、ムハンマドと信徒たちを攻撃する構えを見せた。ムハンマドはマッカに使者を遣わし戦闘の回避に努めたものの、この使者が殺されたとの知らせが届いた。そこで、ムハンマドは、圧倒的な劣勢の中で戦闘に入ることを信徒たちに覚悟させ、何があっても自分に従うことを誓わせた。結局、使者殺害の知らせは誤報であることが判明し、マッカ近郊のフダイビヤで交渉が行われた。この交渉によって成立した停戦協定が「フダイビヤの停戦」である。

この「フダイビヤの停戦」によって、ムハンマドと多神教徒の間に取り決められたのは次の諸点である。すなわち、ムハンマドと多神教徒は、向こう10年間の休戦を約束すること。ムハンマドと信徒たちは、今回の巡礼をあきらめる代わりに翌年の巡礼は保証されること。ムハンマドは、保護者の同意なくマディーナに来ていたマッカの住民を無条件で送還することなどである。この停戦の条件は、ムハンマド側に不利であったため、一部の信徒は反発したものの、『クルアーン』第48章(勝利章)の啓示によって勝利への約束、あるいは、「勝利」の一つと神から説かれ、信徒全員が同意することとなった。

「フダイビヤの停戦」自体は、マッカの多神教徒の協定違反を口実に、630年にムハンマドによって破棄された。その後、ムハンマドと信徒たちはマッカに進軍し、これを無血征服することとなり、10年間の休戦という条項は守られなかった。しかし、この「フダイビヤの停戦」における預言者の言行とそれに対して示された神の啓示は、イスラーム法学において異教徒との停戦を規定する主要な法源となっていった。

イスラーム法学において、異教徒との戦闘はジハードであり、理念的には、敵方が降伏してジズヤ(人頭税)を支払い、ズィンミー(庇護民)としてムスリムの支配に服従するまで継続しなければならない。それは、『クルアーン』第9章第29節に、「戦え。神と終末の日を信じず、神と神の使徒が禁忌としたものを禁忌とせず、真理の宗教に従わない者たちと。彼らが、自らを卑しめて、手ずからジズヤを差し出すまで」と明示されているとおりである。したがって、降伏しズィンミーとなることを申し入れていない異教徒と停戦することは、例外的な状況とされる。スンナ派の主要な法学派は、上述の「フダイビヤの停戦」を根拠として、次の2点を停戦の合法化条件とする。それは、(1)異教徒が軍事的に明らかに優位にあることと、(2)期間が限定されていることである。期間に関しては、様々な説があるが、やはり「フダイビヤの停戦」を根拠に10年以内とするのが一般的である (4)。なお、異教徒側が降伏してズィンミーとして和平を結ぶ場合には、期間を限定する必要はない。つまり、イスラーム法において、降伏していない異教徒との停戦は、不利な戦闘を避けるための措置であり、停戦期間中に体勢を整え、やがてジハードに復帰し勝利することを前提として認められるのである。そうした条件を守り、『クルアーン』の啓示やムスリム全体の利益に反しない限り、異教徒と交戦中の現地指揮官は、敵方との停戦の必要を判断し、停戦条件を取り決める権限を与えられている。特定の戦場で結ばれた合法的停戦は、ムスリム全体と当該異教徒勢力の双方を縛る協定(アクド)と見なされ、相手方がその条件を守る限り、ムスリム全体が遵守しなければならないとされる。

以上が異教徒との停戦に関するイスラーム法規定の概略である。もちろん、これは、あくまで法理論上の規定である。現実においては、ジハードへの復帰を前提としないような異教徒との停戦協定も締結され、そうした停戦も「フドナ」と呼ばれてきた。例えば、十字軍侵入初期(12世紀)のシリアでは、十字軍勢力とムスリム勢力の間で、当面の利益を確保するために、イスラーム法の規定をほとんど無視したような停戦協定が場当たり的に結ばれていた (5)。しかし、イスラーム世界全体で見ると、18世紀に至るまで、ムスリム側が異教徒に対して優勢であることが多く、優位な異教徒に対してムスリムの勢力保全を意図したり、異教徒との対等な共存を目指す停戦のあり方は、ほとんど議論されてこなかった。9世紀から13世紀にかけて、ムスリムの最終的勝利と異教徒のズィンミー化を前提とする停戦規定が確立され、以降、正統的・古典的法理論として継承されていったのである。

数ヶ月単位の短期的戦闘停止(停戦)と10年、もしくは、20年の長期的休戦を使い分けるハマースの停戦に関する言説と実践を見る限り (6)、ハマースは、ムスリムの勝利を最終目標とする古典的・正統的な停戦理念をほぼ忠実に踏襲していると言える。そうした古典的・正統的停戦観を踏襲することで、ハマースは、パレスチナの全土解放という目標を維持しつつ、イスラエルとの停戦・交渉を戦術的選択肢として使用するイスラーム法上の合法性を確保していると考えられる。ハマースが「イスラーム的抵抗運動」である以上、自己の施策・戦術のイスラーム法上の合法性を確保することは重要であるはずであり、イスラエルとの停戦・交渉に対して古典的な停戦規定を遵守することは、むしろ当然と言えよう。

ところで、アラビア語で停戦や休戦を意味する単語としては、フドナの他に「スルフ ṣulḥ」がある。この二つの単語は、ほぼ完全な同義語であり (7)、同一文献の同一記事の中で同時に使用されることも珍しくない (8)。先述の「フダイビヤの停戦」も、「スルフ・アル=フダイビヤ」と呼ばれることも多い。また、法学的な定義においても、スルフとフドナは同一のものとして扱われている (9)。しかし、フドナが戦闘の鎮静化から停戦を意味するのに対して、「正しくあること」「適正であること」といった意味を表す語根、Ṣ-L-Ḥから派生したスルフ(ṣulḥ)は、関係の正常化といった意味での停戦・休戦といったニュアンスを含む。実際、ズィンミーとしての異教徒との無期限の和平に対しては、専らスルフの語が用いられ、フドナが用いられることは見られない。スルフがイスラーム法上の異教徒との正常な関係、すなわち、ズィンミーとしての庇護・支配をも含んで停戦・休戦・和平を指すのに対して、フドナは単なる戦闘の停止としての停戦・休戦を意味するというニュアンスの違いが感じられるのである。

ハマースがそうしたニュアンスの違いを明確に意図して、スルフではなくフドナという言葉を使用しているのかについては、なお検証の余地がある。少なくとも、ここで解説したフドナという言葉の法学上の理念的定義からは、ハマースがフドナという言葉に含意しているものが、イスラエルやアメリカなどに和平のシグナルを送ることではなく、パレスチナ内部のムスリムに対して、イスラエルとの一時的停戦・有期休戦の合法性を主張することであると考えられる。もちろん、これはフドナをめぐる言説上の分析であり、ハマース指導部が、現実にイスラエルとの和平を考慮していないと判断する根拠にはならない。しかし、言説の側面においては、ハマースはイスラエルとの停戦にフドナという言葉を充てることで、イスラエルに対する軍事的劣勢を認めつつ、その劣勢をはねのけ、パレスチナ全土の解放を達成するための手段として停戦を提起しているように読める。フドナという言葉は、ムスリムに「フダイビヤの停戦」とその後のマッカ征服を想起させ、劣勢の下での団結と努力を呼びかけるとともに、最終的な勝利を確信させる効果を持つと思われるからである。



(1) 横田貴之「ハマース(ハマス)のイスラエル承認問題」
   http://www.jiia.or.jp/column/200607/10-yokotatakayuki.html

(2) Ibn Isḥāq (d. 767) and Ibn Hishām (d. 833), Sīrat Sayyid-nā Muḥammad Rasūl Allāh (Das Leben Muhammed7's), ed. Ferdinand Wūstenfeld, 3 vols. (Göttingen: Dieterichsche Universitäts-Buchhandlung, 1858-1860), 2: 746, 962.

(3) バドルの戦(624年)、ウフドの戦(625年)、塹壕(ハンダク)の戦(627年)。

(4) Al-Shāfi‘ī (d. 820), Al-Umm, 7 vols. (n.p.: Kitāb al-Shaʻb, 1968), 4: 109-112; アル=マーワルディー(1058年没)『統治の諸規則』湯川武(訳)慶應義塾大学出版会2006年, 118-119頁

(5) 中村妙子「12世紀前半におけるシリア諸都市と初期十字軍の交渉:協定とジハードからみた政治」『史学雑誌』第109巻第12号(2000年), 1-34頁;同著者「初期十字軍とイスラム勢力:12世紀前半のシリアにおける協定とジハードの検討を中心に」『歴史学研究』第833号(2007年), 172-180頁

(6) 横田貴之「ハマースの停戦観」
   http://www.jiia.or.jp/keyword/200902/13-yokota_takayuki.html

(7) Ibn Manẓūr (d. 1311/2), Lisān al-‘Arab, eds. ‘Abd Allāh ‘Alī al-Kabīr et al., 6 vols. (al-Qāhira: Dār al-Ma‘ārif, n.d.), 6: 4638.

(8) 例えば、Ibn Isḥāq and Ibn Hishām, Sīrat Sayyid-nā Muḥammad Rasūl Allāh, 740-741.

(9) Majid Khadduri, “HUDNA,” “ṢULḤ,” in The Encyclopaedia of Islam, 2nd Edition (Leiden: Brill, 2004, CD-ROM Edition); Idem, War and Peace in the Law of Islam (Clark: Lawbook Exchange, 2010, 1st Publication by the Johns Hopkins University Press, 1955), 202-222.


付記:本稿は、日本国際問題研究所2010年度調査研究提言事業「中東和平研究会」(主査:立山良司防衛大学校教授)における筆者の研究報告に基づくものである。


(2010-08-24)

▲ページの先頭へ
戻るトップページ