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コラム

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「福田ドクトリン」から三十年 -理念主導の外交


枝村純郎(元駐インドネシア大使)



「福田ドクトリン」は時の試練に耐えた
「福田ドクトリン」は、1977年8月17日、福田康夫現総理の御尊父の福田赳夫総理が東南アジア諸国歴訪の最後の訪問地、マニラで発表されたものです。スピーチ全体を指すこともありますが、今日では、スピーチの締めくくりに挙げられた次の三つの原則を指すことが普通です。
第一に、わが国は、平和に徹し軍事大国にならないことを決意しており、そのような立場から、東南アジアひいては世界の平和と繁栄に貢献する。
第二に、わが国は、東南アジアの国々との間に、政治、経済のみならず社会、文化など、広範な分野において、真の友人として心と心のふれ合う相互信頼関係を築き上げる。
第三に、わが国は、「対等な協力者」の立場に立ってASEANおよびその加盟国の連帯と強靭性強化の自主的努力に対し、志を同じくする他の域外諸国とともに積極的に協力し、また、インドシナ諸国との間には相互理解に基づく関係の醸成をはかり、もって東南アジア全域にわたる平和と繁栄の構築に寄与する。
私は、昨年11月2日と3日の両日シンガポールで開催された「福田ドクトリン」三十周年記念シンポジウムに招かれて参加しました。私が、マニラ・スピーチの起草にかかわったことを覚えている人がいたのです。シンガポールの東アジア研究所と日本国際問題研究所の共催でした。東アジア研究所の関係者は、「福田ドクトリン」は日本以上に東南アジア諸国で評価され記憶されているのだよ、と言っていました。また、ある人は、「福田ドクトリン」は、テスト・オブ・タイムに耐えてきた、とも言っていました。
三十年後の今日「福田ドクトリン」がなお高い評価を受けているのは、そこに、時の試練に耐える理念が打ち出されていたからだと思うのです。

戦後はじめての理念主導の外交
戦後の日本の前には、敗戦国としての戦後処理、国際社会への復帰にともなう問題が山積していました。その外交も自ずと懸案処理型、状況対応型のものにならざるを得ませんでした。本誌先月号には、藤田公郎さんが1974年1月の田中角栄総理のインドネシア訪問の際に発生した「反日」暴動について寄稿しておられます。この暴動の主因は、確かにスハルト政権内の権力闘争であったでしょう。しかし、あえて日本側にもその原因を求めれば、当時の日本外交にみられた方向感の喪失も一因ではなかったでしょうか。
1970年代のはじめ、中国との関係正常化、沖縄小笠原の返還によって戦後処理はひとつの節目を迎えていました。ところが、戦後処理のあとの日本外交はどうあるべきか、についての明白な理念は用意されていませんでした。その間に、日本は、もっぱら自らの経済的な利益の追及に明け暮れている、との見方が国際社会で定着しようとしていました。その虚をつかれたのが「反日」暴動の発生であったと言えるかも知れないのです。
1977年8月の福田総理東南アジア諸国歴訪の歴史的意義は、一言でいえば、戦後の懸案処理型の外交を離れて、はじめて明確な理念をかかげての外交であったことでしょう。

日本は国際的責任を果たすべきだ
すべての出発点となった第一の理念は、すでに世界第二の経済大国となっている日本は、いたずらに自国の経済的利益を追及するのみでなく、その地位にふさわしい国際貢献をすべきだという決意でした。
当時アジア局には、右翼課として地域政策課がありましたが、この課の設置は、多分に地域機構としてのASEANを意識してのものでした。私は、1975年にアジア局参事官となったあとの短い期間、地域政策課長を兼務しますが、やがて専任の課長になったのが、のちに欧州共同体(EC)代表部大使在任中にブラッセルで亡くなった西山健彦さんでした。
西山さんは、ASEAN重視を軸とする対東南アジア政策推進のイデオログとして、多くの論考を当時の雑誌などに発表されています。そこでは、まず日本外交の直面する問題の多くの底辺には、日本がその経済力にふさわしい国際的責任を果たしていないという状況があることを、粘り強く説得することからはじめています。そのような国際的責任を果たす場として東南アジアがあるのだ、という議論の進め方でした。
「福田ドクトリン」の第一原則は、日本が、戦後一貫して維持してきた「軍事大国にならず、平和に徹する」との姿勢の確認ですが、それにとどまりません。それは、同時に、日本がその国力にふさわしい国際貢献をするという決意の表明でもありました。マニラ・スピーチのなかでは、次のように説明されています。

 日本は「持てる力をもっぱら国の内外における平和的な建設と繁栄のために向けよう
 と志す国柄であること-われわれは、このような日本のあり方こそが世界における
 安定勢力として世界の平和、安定および発展に貢献し得る道であると確信いたします。」

ここで注目しておきたいことは、「軍事大国にならない」との原則についての説明が、誇り高い調子で貫かれていて卑屈さの影もないことです。日本の戦争責任に対する自虐的な反省や謝罪めいたもの、英語でいうと"アポロジェテイック"なところは全くありません。スピーチのなかでも、経済大国が軍事大国にならないことは、「史上類例を見ない実験への挑戦であります」と格調高く謳いあげられているのです。このように、「軍事大国にならない」との決意が、あくまで「理念」として、日本の「国柄」として表明されていることが、今日でも「福田ドクトリン」が内外の人々に、抵抗なく受け入れられている一因かも知れません。

地域機構としてのASEANの重視
日本が国際的責任を果たすべき場として、日本の足もとの東南アジアが選ばれたのは自然な成り行きでした。当時この地域では、米国のベトナムからの離脱による力の真空が恐れられていました。しかし、「軍事大国とはならない」ことを決意している日本としては、単純に米国の肩代わりはできませんし、するべきでもありませんでした。
おりから、インドシナ諸国の社会主義化に危機感を強めていたASEANは、1976年2月初めての首脳会議をインドネシアのバリで開催したのを皮切りに、その結束と連帯を強めようとしていました。日本としては、東南アジアの安定と繁栄のための経済協力の促進とあわせて、国家的、地域的強靭性の強化によって地域の真空を埋めようとするASEANの努力への支援を明白に打ち出すこととしたのです。
ところが、当時のASEANは、地域機構としてなお確立しているとはいえませんでした。設立の根拠は一九六七年八月外相レベルで採択された「バンコック宣言」で、憲章のようなものはなく、国際的な法人格ももっていません。矢野暢京都大学教授(故人)が、ASEANの頭文字をとって「Ambiguous, Strange Entity of Ad hoc Nature(曖昧で奇妙な場あたり的性格の団体)」と皮肉ったのも故なしとしなかったのです。
そのようなASEANを重視し、日本の対東南アジア政策の中心に据えることには、いささかの躊躇はあり得ました。しかし、アメリカン・フットボールのロング・パスは、受け手の選手の現在の位置でなく、その走って行く先に向かって投げるのです。ASEANについても、現状ではなく、そのあるべき姿に向かって球を投げよう、ということでした。
自立的な地域機構としてASEANを認知し、その連帯強化への努力を意識的に支援することにより、東南アジア安定の核としよう。これが、福田赳夫総理歴訪のために考えられた第二の理念でした。
この理念の具体化として、ASEAN工業プロジェクトヘの支援やASEAN文化交流基金の構想が打ち出されます。それは、ASEANにおける合意形成のプロセスを活性化し連帯の強化に役立つことをも狙ったものでした。

もともとは五原則だった
ここで、歴訪中におこったハプニングを紹介しておきましょう。歴訪当時、日本の報道関係者の間では、熾烈なスクープ合戦が繰り広げられました。総理一行が出発する8月6日付の各紙の朝刊は、翌七日夕刻に発表されるはずの日本ASEAN首脳会議の共同声明の「要旨」を暴露してしまいます。「福田ドクトリン」についても、まず東京新聞が総理一行出発日の夕刊に四原則として「要旨」を報じたのにつづいて、歴訪中にはサンケイ新聞が、五原則として報道します。
事実、歴訪出発時に用意されていたテキストでは、五原則になっていました。それは、(1)軍事大国にならないとの決意の表明、(2)ASEANを自立的な地域機構として認知、(3)東南アジア諸国への経済協力の促進、(4)心と心の触れ合う関係の確立、(5)インドシナ諸国との共存による東南アジア全体の平和と安定、の五原則だったのです。
リークの事後処理として、福田総理は、スピーチの締めくくりの原則の数を四でも五でもない六か三にせよ、と指示されます。そこで、随行していた中江要介アジア局長と小和田恒総理秘書官がバンコック訪問中に相談して、五原則を三原則にまとめます。上記の(1)と(4)の原則は、手付かずで残りましたが、東南アジア政策にかかわる(2)、(3)、(5)の三つの原則は、ひとまとめにされて第三原則のなかに突っ込まれたのです。このため第三原則は、他の二つの原則にくらべて長く、一見ごたごたした印象を与えます。
第三原則に入っている三つの要素のうち、とりわけインドシナとの共存を重視する見方もありますが、少なくとも当時の私の意識では、それは、あくまでも但し書きでした。ASEAN重視がインドシナ敵視を意味するものではないという断り書きであり、共存は長期でなければ中期的な目標でした。さきに福田歴訪の第二の理念として挙げた「地域機構としてのASEANの重視」こそが、対東南アジア政策の核心だったというのが私の理解です。

心と心のふれ合い
「福田ドクトリン」を生んだ第三の理念は、「心と心のふれ合い」です。
日本は経済オンリーのエコノミック・アニマルだとの定着しつつある「偏見」を打破する必要は、すでに早い時期から意識されていました。1974年に第一回が実施された「東南アジア青年の船」の構想や、「東南アジア元日本留学生の集い」のプロジェクトは、いずれも田中角栄総理の歴訪の時に、訪問先各国の同意と協力を求めたものでした。
経済界でも、1973年6月には「発展途上国に対する投資行動の指針」が作成され、現地人スタッフの登用促進、現他国文化の理解と尊重などが謳われました。1974年7月には、この「指針」の実施を促進するために、「日本在外企業協会」が設立されます。
藤田さんが先月号で紹介されているとおり、すでにラグラグ会も発足していました。
ラグ・ラグとは、インドネシア語で「歌」の複数形です。インドネシア語の歌を歌おうという、この現地駐在員のコーラス・グループには、歴代日本大使も参加します。音痴の私は遠慮しましたが、國廣道彦さんや藤田公郎さんのようなのど自慢は、メンバーに加わられたのです。
このように域内諸国国民の心情への配慮と国民文化への敬意は、急速に日本人のあいだに定着していましたが、「福田ドクトリン」が、それを「心と心のふれ合い」というスローガンとし、理念として打ち出したことが今日なおひろく人目に膾炙するほどのインパクトを残したのです。
当時南東アジア第二課長であった谷野作太郎元駐中国大使は、「『心と心のふれ合い』は女学生みたいだと指摘する人もいた」と言われています(2007年12月2日付日本経済新聞朝刊)。現に私も、昨年11月のシンガポールでのシンポジウムで、「心と心のふれ合い」は外交用語としてはあまりに情緒的であり異例ではないか、との質問をうけました。
碓かに、それを揶揄する向きもありました。福田赳夫総理が日本・ASEAN首脳会議が開かれる最初の訪問地、クアラ・ルンプールに到着される前に、シンガポールの「ストレイト・タイムズ」紙は、こんなことを書いたのです。今回ミスター・フクダは「Heart to heart」をスローガンにやってくるようだが、ASEAN首脳がフクダに期待しているのは、むしろ「Heart to pocket」なのだ。
しかし、まさに外交用語やお役所言葉でない、端的で判りやすい言葉であったことが、東南アジアの人々の心をとらえたのでした。
今日でも「Heart to heart」、インドネシア語では「Dari hati ke hati」こそが、「福田ドクトリン」のエッセンスとして記憶されているのです。

明白な理念のもとでの一貫性
このように明白な理念のもとに進められたことが、歴訪全休に揺るぎない一貫性をあたえました。当時の日本・ASEAN首脳会議の記録、首脳会議後の共同声明、訪問先での各国首脳との会談の記録、マニラ・スピーチなどを通読すると、歴訪中日本がASEAN諸国向けに発信したメッセージには、驚くほどの一貫性があることに気付きます。そのことが、強い印象を残しました。
事務方の周到な準備もありましたが、福田赳夫総理が、自らの政治信念と哲学を吐露して、きわめて優れたプレゼンテーションをされたことが大きかったと思います。首脳会議でも、訪問先各国での会談でも、ややもすると具体的な実利を前面に出そうとする相手方を制しながら、まず理念を説き、おもむろに各論に入っていくというスタイルで、議論を主導されたのです。
とりわけASEAN首脳との会議での文化交流についてのやりとりは、痛快でした。福田総理は「せっかくASEANというまとまった動きが生まれ、その将来に期待と関心をもっているが、外から見ていると経済の話ばかりしているようだ。より幅のひろい『心と心のふれ合い』にまで進んで欲しい。」と述べて、ASEAN域内で文化交流を促進するための資金協力を申し出られます。
当時盛んであった、経済オンリーのエコノミック・アニマルとの日本批判に対し、君達こそ経済オンリーではないかといわんばかりの見事な反撃でした。なお、ASEAN文化交流基金について「日本は財政協力のみを行ない、あとはASEAN側の自主性を尊重する」と述べられたことも、ASEAN側首脳の意表をついたものでした。日本がそこまで考えてくれているとは、と口々に評価されたのです。
福田総理のこういうさばき方をみていると、戦前・戦中派教養人特有のエスプリというか、飄々とした人間味、さらには政治家としての余裕のようなものを感じさせます。
このように、1977年の福田総理東南アジア歴訪は、まさに、天の時、地の利、人の和を得て成功し、「福田ドクトリン」は、永く歴史にその名を残すことになったのです。

新「福田ドクトリン」?
「福田ドクトリン」から得られる教訓は、やはり外交においては理念が大切だということです。理念のある外交は、一貫した強いメッセージをもって人の心に訴え人を動かします。
昨年は「福田ドクトリン」三十周年であったことに加えて、折から、福田赴夫総理の御令息の福田康夫総理が就任されたこともあり、いくつかの新聞には、「新『福田ドクトリン』待望論」とか、「福田首相のアジア外交-歴史的新ドクトリンを」とかの見出しが踊りました。
私も、そうあって欲しいという思いでは、人後におちません。しかし、新しいドクトリンを、というと簡単ではありません。「福田ドクトリン」の、「心と心」のスローガンも一朝一夕に頭に浮かんだものではありません。すでに1960年代にはじまっていたエコノミック・アニマル批判への危機感は、田中総理歴訪のときの「反日暴動」の試練で頂点に達します。「心と心」のスローガンは、いわばトヨタ車が燃えさかる火の洗礼を受けて育ってきたのです。
ASEANの対日態度も、最初から好意的なものではありませんでした。発足以来1970年代半ばころまで、毎年の閣僚会議のあと発表される共同声明での日本への言及は、おおむね批判的で非友好的でした。それにもめげず、日本は、ASEANに対し友好と激励のメッセージを発しつづけてきたのです。ASEAN側も、インドシナ諸国社会主義化への危機感と自らの力の限界への認識から、ようやく日本に目を向けはじめます。
折から、日本は、戦後処理の外交に一区切りをつけ、あらたな外交の方向性を求めていました。世界第二の経済大国としてODA倍増政策をも打ち出します。日本社会全体に積極的な外交理念を産み出し、支える活力があったのです。
このように「福田ドクトリン」のための「天の時」は、およそ十年もかけて熟してきたのです。時の試練に耐えるような外交の理念は、誰かが鉛筆をなめてその場でできるほどお手軽なものではありません。

「大衆の反逆」
昨年暮れには、六本木で毎日新聞と国際アジア共同体学会共催の「福田ドクトリン三十周年と日本外交」と題するシンポジウムが開かれ、基調講演をする機会がありました。「新福田ドクトリン」待望論については、私は、スペインの思想家オルテガ・イ・ガセットの「大衆の反逆」(1930年)からの引用をもって答えました。
「現代の特徴は、通俗的な人間が、通俗的であることを自ら知りながら、通俗的であることの権利を臆面もなく主張し、それをあらゆるところで押し通そうとしていることである。」(枝村訳)
人間の言葉に教養や経験がにじみ出るように、理念は、社会の知的レベルを反映し、その活力から生まれます。大衆が好き勝手に下品な好みをおしとおし、メディアがそれを煽り、政治や行政もそれに迎合せざるを得ない。社会に村し責任感をもつ人間の居場所がない。そういう社会からは、時の試練に耐える外交理念など生まれるはずもないのです。
国際社会への貢献に例をとれば、これほど「ロー・リスク ハイ・リターン」で、しかも高く評価されるやり方はないと思われるインド洋における給油活動についてすら、あれほどの大騒ぎが起こるのです。国際貢献の問題と防衛省のスキャンダルの問題を混淆して、「油を出すより膿みを出せ」というような大衆受けを狙ったスローガンで煽る。まさに「大衆の反逆」現象です。

あらためてASEAN重視を
新しい「ドクトリン」が生まれるためには、三十年前の「福田ドクトリン」がそうであったように、まずは日本の国際貢献の必要とそのあり方について、日本国民の間にコンセンサスを創りあげる努力が欠かせないように思われます。
しかし、外交は休むわけにはいきません。「ドクトリン」の誕生をまつ間にも、できる
ことから手を付けていく、いわゆる機能的アプローチをとることが、一法でしょう。例えば、将来の東アジア共同体の創設を目指して官民での研究をすすめ、二国間EPA網を構築していき、それにともなう国内体制の整備をはかっていくようなことが考えられます。
「福田ドクトリン」が打ち出されたあとの三十年間に東アジアにおいて起こった大きな違いは、中国の台頭です。また、もはや外交の対象を東南アジア地域に限定することは不可能です。ひろく東アジアを考え、豪州、ニュージーランド、さらにはインドまでも視野に入れていくことが必要になっています。
このような状況を反映して、すでに東南アジアを越えた地域協力の枠組みがいくつか存在します。ASEANプラス3、東アジア・サミット、ARFなどなどですが、その枠組みの軸となっているのは、ASEANです。私は、東アジアにおける地域協力のドライヴイング・シートにASEANが座っているという現在の状況は悪くないと思います。とくに日本が主導権を十分に発揮できない状況であるとすれば、ASEANにまかせることの方が、ほかのだれかが運転席を占めるよりも望ましいと思うのです。
ところが、ASEAN自体、現在ひとつの曲がり角にさしかかっています。加盟国の拡大、AFTAの推進、ASEAN憲章の採択、事務局の強化など、国際機構としての形はますます整ってきている一方、加盟国の拡大によって、社会主義体制をとる国や、ミャンマーのような軍事独裁体制の国までも抱え込むことになりました。また、加盟国間の格差の問題も深刻です。シンガポール、ブルネイなど一人あたり国民所得が三万ドルに及ぶ国がある一方、新規加盟の四か国は、おしなべて数百ドルのレベルですし、ミャンマーなどは僅かに二百ドル余りです。
日本としては、地域機構としての結束と連帯をも阻害しかねない問題を克服しようとするASEANの努力を、意識的に支援すべきだと思います。かつてそうしたように、ASEANの現状でなく、そのあるべき将来像にむかって球を投げることが、再びもとめられているのです。
インドシナ三国やミャンマーヘの協力を、単なる二国間協力としてでなく、ASEANの域内格差解消のための協力として位置付けることが、まず考えられます。
また、ASEANが憲章を採択し国際機関としての法人格を取得しようとしているときに、日本としては、ASEANをそのような機関として認知するとの姿勢を、つとに明確にすべきでしょう。とりわけ、いかなる国際機関にとっても、それが有効に機能するためには、事務局の役割が決定的に重要です。日本としては、ASEANの事務局をこれまで以上に重視し、関係を深めることが大切です。ASEAN代表部を在インドネシア大使館とは別にジャカルタに設置すべきですし、その法的、予算的な措置が整うまでは、待命大使の一人をASEAN担当大使に任命し、ジャカルタに長期出張させるようなことも考えられるでしょう。
さいわい、ASEANの新しい事務局長に就任したスリン・ビッスワンさんは、まれに見る逸材です。タイの少数民族出で回教徒ですが、ハーヴァード大学で博士号を取得した学者で政治家です。1997年から2001年までは、タイの外務大臣も務めました。昨年11月のシンガポールのシンポジウムでは、私が司会した公開セッションでのラウンド・テーブルで、基調演説をしたあとパネリストの一人として議論にも参加してくれましたが、その精力的で笑顔を絶やさぬ人柄には魅せられました。

そのあと、12月に来日したビッスワンさんは、日本国際問題研究所の主催で講演しました。講演前の懇談の席で、ビッスワンさんが国連事務総長にならなかったのは残念だと言う人がいました。私は、ビッスワンさんが、ASEAN事務局長になることによって、ASEAN事務局長の権威は向上し、やがて国連事務総長に比肩する、あるいはそれを超すものとなるだろう、とコメントしたのです。お世辞にはちがいありませんが、半ばは本気でした。
日本としては、それくらいの意気込みでASEANをもり立てるべきときが、またきているように思うのです。

(編集者注:この論文は『霞関会会報』2008年4月号に掲載されたもので、同会報及び執筆者の了承を得て転載しました。なお、本稿を敷衍した「物語『福田ドクトリン』から30年-東南アジア外交、見たまま、感じたまま」が月刊誌『外交フォーラム』5月号から約1年間の予定で連載されます。本稿にご関心のある方は連載もお読みいただければ幸いです。)


(2008-04-09)

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