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コラム/レポート

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新型インフルエンザから見えるエジプトの宗教対立



2009年4月にメキシコで流行が確認されて以降、新型インフルエンザは世界各地へ拡大し、すでに現実的な脅威となっている。日本においても新型インフルエンザの拡大が見られ、さらなる流行が懸念される季節を向かえ、警戒が喚起されている。この新型インフルエンザが最初「豚インフルエンザ」と呼ばれていたことを記憶の読者諸賢も多いであろう。流行当初、豚から人間へ感染した可能性が高いという見解などから、WHO(世界保健機関)や各国保健当局はそのように呼んでいた。4月27日に開催されたWHO専門家緊急委員会で人間から人間への感染であることが合意された後は、新型インフルエンザの呼称が一般的に用いられることとなった。



イスラーム諸国では現在も「豚インフルエンザ」の呼称を用いる国も多い。そうした国のひとつであるエジプトは、新型インフルエンザ対策として豚の全頭殺処分を実施し、世界的な注目を集めた。豚から人間への感染防止を目的に、今年4月28日に人民議会(日本の国会に相当)で豚の全頭殺処分に関する政府への勧告が可決され、29日に政府は国内飼育豚35万頭の殺処分を決定した。WHOなどは豚から人への感染の確証はないとしてエジプト政府の対応を批判したが、翌5月から殺処分作業が開始された。



この対策をめぐり、エジプト国内ではコプト教徒の一部から強い反発が生じた。コプト教徒とは単性論派(1)のキリスト教会の信徒で、エジプト総人口約7000万人の内5~10%を占めるとされる。彼らがなぜ豚の殺処分に反発したかというと、エジプト国内の豚を飼育していたのは彼らコプト教徒だったためである。エジプトの多数派であるムスリム(イスラーム教徒)にとって豚は聖典クルアーンで食肉が禁止されており、多くのムスリムが不浄感を抱いている。一方、全頭殺処分前のエジプトでは、主にコプト教徒からなるザッバーリーンと呼ばれるごみ回収業者がカイロ市中からごみを回収・分別し、生ごみを豚に与えることでごみ処理・養豚を行っていた。筆者がカイロに暮らしていた際も、玄関先など所定の場所にごみを出しておくとザッバーリーンがそれを集めていた。また、コプト教徒による屠殺や豚肉販売も行われ、かつてはカイロで豚カツを食すこともできた。



ザッバーリーンのコプト教徒にとって、豚は生ごみ処理の重要な商売道具であるのみならず、現金収入をもたらす家畜でもあったのだ。そのため、豚を飼育するコプト教徒は全頭殺処分を自分達の生活の基盤を脅かすもの考えて強く反発し、治安部隊との衝突による負傷者も発生した。これに対して、政府側はあくまでも保健衛生上の措置であり、処分に伴う補償も行われると発表して事態の収拾を図った。コプト教会総司教シェヌーダ3世も宗教対立の激化を懸念し、政府の決定を受け入れるようにとの立場を示した。全頭殺処分から約半年経った現在、各地でいくつかのムスリム・コプト教徒間の衝突が見られたものの、事態はほぼ沈静化したとされている。



しかし、コプト教徒の一部からは、政府の全頭殺処分について、豚を忌避するイスラームの教えの押し付けであり、宗教差別だとする批判の声が上がっている。コプト教徒人口の1割を占める米国などの海外移住者の間にも反対の声が根強い。また、しばしば「イスラーム原理主義組織」として言及されるムスリム同胞団(2)所属の人民議会議員が全頭殺処分に関する議会勧告の推進役になった経緯から、イスラーム法(シャリーア)施行を目標とする同胞団と政府の「協調」や、今後の宗教差別に懸念を抱くコプト教徒も見られた。全頭殺処分後に新型インフルエンザによる死者がエジプトで発生したこともあり、コプト教徒の一部には殺処分の有効性への疑問も相まって、政府への不信感が募っているとされる。全頭殺処分によって転職を余儀なくされた多数のザッバーリーンの存在も、コプト教徒の不満を助長している。なお、現在、豚の不在によりごみ収集システムが機能しなくなり、カイロなどの大都市では、路上にごみが散乱するなど衛生上の問題が浮上している地区もある。



これまでのエジプト政治において、ムスリムとコプト教徒の間の宗教対立は幾度となく政治的混乱の引き金となってきた。例えば、サーダート大統領(在任1970~81年)政権末期の宗教対立は多数の死者を伴う政治的混乱へと至り、サーダートに野党・イスラーム主義運動・コプト教会など反対派への一斉弾圧を決心させることとなった。サーダートがこの弾圧の直後にイスラーム急進派によって暗殺されたことはあまりにも有名である。サーダートの後を襲ったホスニー・ムバーラク大統領は、これまで宗教対立の解消や国民統合に大きな努力を払ってきた。しかし、新型インフルエンザ対策という保健衛生上の政策が結果的に宗教的な衝突を誘発した今回の事例に示されるように、エジプト政治においては今なお宗教対立の火種が燻り続けている。政府や与党国民民主党(NDP)は政治混乱を招きかねない宗教対立に対して非常に敏感であり、宗教対立はエジプト政治の今後を考察する上で引き続き重要なキーワードとなろう。



(1) キリストには単一の性質のみが存すると信じるキリスト教徒の総称。ブトルス・ガリ元国連事務総長もエジプト人コプト教徒である。



(2) http://www.jiia.or.jp/keyword/200504/21-yokotatakayuki.html


(2009-10-13)

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