1947年、シリアのダマスカスでアラブ・バース党結党大会が開催された。バースとはアラビア語で「復興」、「再生」を意味し、アラブの統一、外国支配からの解放、社会主義を三大原則とするアラブ民族主義政党。52年にアラブ社会党と合併し、正式名称はアラブ・バース社会主義党となる。そのイデオロギーは、近代西欧のナショナリズムによる民族国家建設と社会主義であり、イスラムの価値や文化を決して否定するわけではないが、その世俗主義の傾向は、創設者の一人ミシェル・アフラクがギリシャ正教徒であったことにも象徴されている。
アラブ民族主義は、ワタニーヤ(ワタン主義)とカウミーヤ(カウム主義)の2つに大別される。前者は、第二次大戦以前まで主流であったもので、アラビア語のワタンは「郷土」または「祖国」を意味し、エジプトやシリアなどの既存の国や地域の単位で独立や国民国家の形成を目指す、さまざまな思想や運動の総称である。しかし、両大戦間期や第二次大戦後のアラブ諸国の独立は形式的なものに過ぎず、英仏の実質的な支配が継続した。このワタニーヤの限界を克服するかたちで第二次大戦後に現れたのが、「アラブの統一」を掲げるカウミーヤである。当然、これには1947年国連パレスチナ分割決議および48年のイスラエル建国が、大きく影響している。カウムは「民族」を意味し、カウミーヤとはアラブ民族全体によるアラブ統一国家の建設を目指す思想と運動の総称である。カウミーヤにはバース主義、ナセル主義(52年エジプト革命およびナセル大統領の理念や政策)、アラブ民族運動(ANM、マルクス・レーニン主義や毛沢東主義のアラブ地域での展開)の3つがある。言うまでもなく、バース党はバース主義の政党である。
バース党がアラブ世界で広範な支持を得、特に知識人や軍人に受け入れられた最大の要因は、「アラブ統一」に至るその戦略である。アラブ民族による統一国家というカウミーヤ自体は、ワタニーヤよりもナショナリズムを深く厳密に理解するものではあるが、アラブ民族の統一国家は巨大なものとなり、決して現実的な思想とは言えない。しかし、バース主義はアラブ諸国という現実を受け入れた上で、各国にバース党を設立し、選挙ないし革命により各々が政権を取ったのち、各バース党政権が合体してアラブ統一国家を形成するという、明確な道筋を示した。それゆえ、バース党指導部は、上位に位置する民族指導部がアラブ世界全体を対象とし、下位に位置する各国の地域指導部が当該国を対象とする。ミシェル・アフラクらの民族指導部はシリアに置かれ、地域指導部はシリアからイラク、ヨルダン、レバノン、イエメン、バハレーンなどに拡大していった。
しかし、50年代後半から各国の地域指導部は民族指導部から離れ、「アラブ統一」を掲げながらも、それぞれの国における権力の奪取や維持を最優先としていく。シリアでは、63年の軍事クーデターにより初のバース党政権が誕生したが、アラブ統一よりも社会主義建設が優先され、ミシェル・アフラクら民族指導部のメンバーは66年に国外追放となった(ミシェル・アフラクは、亡命先のイラクでバース党民族指導部を再建したが、89年に死去した)。70年にアサド国防相による2度目の軍事クーデターがあり、アサドは翌年にバース党シリア地域指導部書記長および大統領に就任した(2000年、息子のバッシャール・アサドが両ポストに就任)。イラクでは51年に地域指導部が成立し、63年軍事クーデターで政権に参加したが、短期間で排除された。その後、バクル書記長(66年)とサッダ―ム・フセイン副書記長(67年)の体制で党勢の強化が進み、68年軍事クーデターによりバクルが大統領に就任した。79年、副大統領であったフセインがバクルを引退に追い込み、大統領となるとともに、イラクの最高意思決定機関であるバース党イラク地域指導部(RC)および革命指導評議会(RCC)合同会議議長に就任した。
現在では、シリア以外のバース党の政治勢力は極めて小さい。ヨルダン地域指導部は、他の政党と合併し、現在はヨルダン民族民主戦線という政党になっている。レバノン地域指導部は、シリア系とイラク系に分裂状態。イエメンでも同様に、イエメン地域指導部からイラク系のバース民族党が分離した。GCC諸国およびチュニジアでは、非合法となっている。
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