JIIAフォーラム講演要旨

2006年1月16日
霞が関東京會舘 シルバースタールーム

リマ・カラフ・フナイディ国連事務次長兼UNDPアラブ局長
「アラブ人間開発報告書と民主化」

今日、アラブ諸国が置かれている状況について、異なる二つの見方がある。ひとつは、最近の改革の進展に注目して、現在を「アラブの春」と呼ぶ楽観主義的な見方である。もうひとつは、最近の暴力を伴う事件の増加に注目して、「地獄の扉が開いた」とする悲観的な見方である。このような両極端の意見が見られる中で、アラブ諸国がどのような状況にあるのか、そしてどこに向かっているのかを検討することは、我々にとって非常に重要である。この点からも、国連開発計画(UNDP)による『アラブ人間開発報告書』の作成は時期を得たものであろう。

日本にとっても、アラブ諸国は経済的に重要な存在であり、そこにおける平和と安定は不可欠のものである。また、日本はアラブ諸国の安定と発展の必要性を真に理解している国であると考えられる。実際に、日本はアラブ諸国に対してこれまで多大な貢献を果たしてきた。その代表例のひとつは、「パレスチナ人支援計画」であろう。日本は最大の支援国として、UNDPとの協力下で1993年以来2億ドルを越える資金供出を行っている。最近では、日本は国連イラク信託基金へ多額の支援を行っており、イラクの安定化に貢献している。また、サマーワにおける自衛隊の復興支援活動も高い評価を得ており、現地における雇用創出にも寄与している。

アラブ諸国における過去2年間の劇的な政治・社会の変化は、周知のところである。レバノン、エジプト、バハレーン、チュニジアなどの国々で、市民が自由と権利を求める平和的な集会を開催している。そこでは、市民や活動家のみならず一部では政府関係者も参加し、グッド・ガバナンス、ジェンダー間の平等、マイノリティの権利擁護などが主張されている。サウジアラビアにおいても、女性のエンパワーメントやマイノリティの宗教的権利擁護を求める市民運動が報じられている。このような改革要求の高まりの中で、多くのアラブ諸国政府にも改革プログラム発表の動きが見られる。

現在の改革運動高揚の背景には、域内的理由と域外的理由を指摘できる。前者については、権威主義体制下での抑圧、政治参加の制限など自由の欠如に対して、特に若年層を中心に人々の不満が強まったためと考えられる。後者については、特に9.11事件以降のアメリカの介入主義的安全保障政策が挙げられる。それは、改革によってテロの元凶を払拭する必要性にアメリカが迫られた結果である。

こうした状況下で、UNDPは様々なアクターが合意できる人間開発のヴィジョンを示すために、2000年以降、『アラブ人間開発報告書』作成に努めてきた。その基本原則は、アラブ諸国が抱える問題は域外からの押し付けではなく、地域の人々によって決定されなければならないということである。この原則の下、アラブ諸国における問題を検討するために、そしてその解決法を見つけるために、広範な人々が参与できる形で議論が行われている。また、本報告書の重要性は次の二点にあろう。第一に、公正な立場にあるUNDPがスポンサーであるがゆえに利害関係から自由であること。第二に、UNDP職員が報告書を執筆したのではなく、アラブ人自身によって執筆されたこと。執筆陣は様々な社会階層・出自・職業・政治思想・宗教のアラブ知識人から構成されている。

第1作(2002年)では、アラブ諸国における人間開発の現状を検討・評価することに焦点を定めた。各国の事例を検討した結果、自由・知識・女性のエンパワーメントの三点において著しい欠如が見られ、それゆえに人々が持てる能力を発揮する機会が不足していると結論付けられた。そして、このような問題群に対処するためには、グッド・ガバナンスを確立し、人々がそれを享受できなければならないとした。

第2作(2003年)では、アラブ諸国における知識の不足に焦点を定めた。知識について考える際には、創出と普及の二つの側面で検討する必要がある。まず、現在のアラブ諸国においては、知識の創出は乏しいと言わざるをえない。自然科学については研究インフラの欠如や政府予算の不足が、低調の理由に挙げられる。人文・社会科学においては、研究者の多くは国立の大学・研究機関に勤務しており、それゆえに政府に対して批判的な研究・表現を行うことができない。文学は例外的に創出面において高いレベルにあるといえるが、普及という側面においては他の分野と同じく低調である。その理由としては、各国における厳しい検閲体制などの制度的制約を指摘できる。アラブ諸国において創出と普及をかねそろえた知識社会を創造することが急務となっている。そこで最も重要となるのは、教育制度の大幅な改革である。報告書では、各国の教育制度について分析・評価を行い、基本教育・高等教育の二つの分野において改革の試みを論じた。

そして、第3作(2005年)では自由に焦点を定めた。アラブ諸国における自由の状況について検討し、多くの国々で自由が欠如していると評価した。特に、政治的自由の欠如は深刻で、報道の自由、司法の独立性、選挙の公正性・自由性、治安制度などにおいて大きな問題が指摘できる。このようなグッド・ガバナンスの欠如により、女性やマイノリティなどの弱者はさらなる自由の欠如に直面している。また、イスラエルによるパレスチナ占領も、抑圧と自由の欠如を促進する要因となっている。占領下で、パレスチナ人は政治的・社会的権利のみならず、基本的な人権においてすらも侵害される深刻な事態に置かれている。さらに、アル=カーイダなどの過激派は、占領を口実に人々に歪んだ思想を広めている。そこで、報告書では取り急ぎ行うべき改革として、言論・表現・結社の自由保障、女性・マイノリティの権利保障、非常事態令の廃止などを掲げた。グッド・ガバナンスの確立が至急の課題なのである。

今年5月頃に発表予定の第4作は、アラブ諸国におけるジェンダー問題に着目し、女性のエンパワーメントに焦点を定めて目下作成中である。アラブ地域の文化や社会・経済構造を分析し、そこにおける阻害要因と改革の方策を検討している。  一連の『アラブ人間開発報告書』は、アラブ人自身による改革という基本原則に立っているが、もちろん域外諸国からの支援もそれを促進するものとして非常に重要である。域外からの支援を意義あるものとするためには、つぎの4点を遵守する必要があろう。第一に、アラブ人が自らの自由とグッド・ガバナンスに関するヴィジョンを作る権利を有すると認めること。第二に、人々の意思を反映した民主主義的プロセスの結果を認め、積極的に関与すること。第三に、民主主義的プロセスに従う全ての非暴力的な政治・社会勢力の参加を認めること。第四に、アラブ諸国の改革者と域外の支援者との関係は対等なパートナーシップであること。これら諸原則の下で、日本などの域外諸国はアラブ地域の真摯な改革に大きく寄与することができるのである。

以 上