本日のテーマは「必要、強欲、持続可能な未来」であるが、これはマハトマ・ガンジーの「(地球は)全ての人々のニーズを満たすのに十分であるが、全ての人々の強欲を満たすには十分ではない」という言葉からきている。つまり、本日は必要と強欲の関係について、特に必要と強欲は切り離して考えるべきであるか否かについて考察する。このガンジーの言葉にも表れているが、環境保護論者は必要と強欲は相容れない関係にあるとし、人々は必要を満たせば良く、そうでなければ資源が枯渇してしまうと訴える。しかし、私は必要と強欲を切り離して考えるべきではないと考える。現在の国際社会情勢を考えると、そうした二分化は持続可能な未来を切り開くことができないからである。
必要と強欲は必ずしも相容れない関係ではない。ボツワナは好例であろう。ボツワナのダイアモンドは、多くのボツワナ人を救ったのである。ダイアモンドは生活必需品ではないが、先進国のダイアモンドへの欲がボツワナの開発・発展へと導いたのである。ダイアモンドから得た資金によって、ボツワナの人々は医療や教育を無料で受けられるようになった。つまり、先進国における強欲が、途上国のニーズを満たしたのである。こうした必要と強欲の有機的関係は、他国においても見られる。
必要と強欲の有機的関係を体系的に構築するために必要なことは、新しい環境保護パラダイムを構築することである。そのパラダイムは、人々の強欲を受け入れ、それを資源保護にも寄与する形で取り込むものでなければならない。新しいパラダイム構築のためには第一に、補償に関する規範および制度を形成する必要がある。ダイアモンドの例ではボツワナは成功例であったが、コンゴではダイアモンドは惨事を引き起こした。課題は、資源を採取すると同時に、いかに人々のニーズを満たすかである。資源を採取しても十分な利益を得ていない社会・国家に対しどのような補償をすべきかについて、国際社会における規範と制度が必要である。
第二に、人々の生活を持続可能性の概念に組み込む必要がある。この点において、「持続可能な生計指数(sustainable livelihood index)」の算出は有意義であろう。この指数は、ある(二次産業)製品が環境面から持続可能であるかだけでなく、その製品および原料・材料の原産国・生産国がどこか、そしてその製品が原産国・生産国の貧困削減にいかに有益であるかを示す指数となる。国連等が作成する指数は国ベースのものがほとんどであるが、持続可能な生計指数は、製品ベースのものである。ある製品が、例えばドイツで作られたものとマリで作られたものでは、その製品がそれぞれの国民の生活に与える影響は異なる。従って同じ製品であっても、国民により有益な影響を与えるものは高い指数となる。
第三に、開発の概念を再考する必要がある。開発は国の経済発展が目的であるように捉えられており、開発と富は同義に理解されがちである。しかし、これは持続可能な捉え方ではない。世界の全ての人々の生活水準を、例えば米国の高い生活水準まで引き上げるということは、実現不可能である。地球資源は限られているからである。開発は、人々の健康、人々が持つ選択肢を最大限にすることと理解されるべきである。これに関連して、開発援助の是非をめぐる議論の一つに、開発援助は国の発展を支援するものであるが、本当に必要なものは人々のキャパシティ・ビルディングや生活形成に向けた支援であるという議論がある。既存の開発援助を全て停止することは望ましくないが、開発援助と生活形成に向けた援助のバランスをとることが重要である。(また、フロアから、開発援助はこれまで先進国と途上国の発展レベルの差異を埋めることが重視されていたが、今後は途上国の人々の能力を高めることを重視すべきであるとの意見も出された。)以上を実行にうつすことにより、強欲が人々のニーズを満たすことができるのである。
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