JIIAフォーラム講演要旨

2010年10月29日
於:日本国際問題研究所

小川正二

駐イラク日本国特命全権大使

「イラクの現状と未来」


本講演は、イラクの現状及びイラクにおける民主主義の未来に関するものである。国際政治の視点から言えば、イラクの重要性は1980年代のイラン・イラク戦争、1990−91年の湾岸戦争を通じて認識されるようになった。また、イラクは中東の中央に位置し、地政学的重要性が非常に高い。従ってイラクは中東の大国であると同時に、過去20〜30年にわたり中東地域の不安定要因でもあった国であり、イラク情勢は中東地域の安全保障に多大な影響を及ぼす。イラク戦争は周知の通り、9.11テロと大量破壊兵器(WMD)との連関によって、米国政策におけるイラクの重要性が高まったことから開始された。スマート兵器を重用し、少数兵力による敵地制圧を目指したラムズフェルド国防長官の戦略は一方で効果的であったが、他方でその後の国内治安維持という観点からは問題があった。米軍が少なかったことに加え、スンニ派がアルカイダと連携し米国やイラク政府に対する攻撃を激化させたことにより、国内治安の悪化が加速した。

このような状況を踏まえ、米国は2007年から2〜3万の兵の増派作戦を決断した。この作戦は、それまでの軍事作戦――つまり少数兵力によるイラクの安定化作戦――からの変更を意味した。結論を言えば増派作戦は成功したと言えるが、その要因は兵士が増加したからだけではない。米軍は、それまで行っていたゲリラ掃討作戦を市民保護へと転換させたことも重要であった。それまでは米軍は夜間の活動は行っていなかったが、変更後は昼夜問わず米軍がイラク市民を保護することになったため、市民の安全は劇的に改善された。また、治安が改善された背景には、スンニ派がアルカイダ支援からイラク政府支援・協力に方針転換したことや、マリキ政権がシーア派過激民兵組織に対する軍事的措置を徹底したことも挙げられる。こうした米軍の軍事作戦の変更やイラク国内政治の変化によって、イラク政府と反政府軍の力関係に均衡がもたらされた。2008年夏頃からイラク治安状況が改善されたのである。

近年のイラクにおける2回の選挙を見てみると、イラク型の民主主義が根付いてきていると言える。これまでのイラク政治は、シーア派、スンニ派、クルド民族(シーア派が多い)といった3つの大きなグループがあり、宗派関係が非常に重要であった。宗派は現在でもなお重要ではあるが、宗派の違いを越えた政治へと移行しつつある。宗教色の強い政党は国民からの支持を失い始めたことからも、イラク国民も同様に宗派の違いに依拠しない政治を求めるようになっていることがわかる。また、マリキ首相も法治国家連合というシーア派を中心としながらも様々な宗派が加わった政党を率いて、国民の支持を得ている。これはイラク政治の新たな流れである。

しかし、選挙後の政治に問題がないわけではない。例えば、選挙は公正に行われたが、選挙結果に満足しないグループ間の駆け引き、米国の影響力の低下、イラク国内政治に対する周辺諸国の相対的影響力の増加により、選挙から8ヶ月経っても政権は樹立されていない。またこうしたイラク政治の複雑な状況が、今後のイラク政治を不透明にしている。イラクでは長い間独裁政権が存在していた国であり、民主化が行われたのも僅か5,6年前である。成熟した民主主義が根付くにはまだ年月がかかるため、忍耐強く見守っていく必要がある。

今後のイラク情勢に大きな影響を与える一要因は、2011年末までに実施される米軍の完全撤退である。米軍撤退は米政府とイラク政府の合意であり、米政府は粛々と撤退を行う計画であるが、安全保障の視点から考えると米軍撤退はやや時期尚早であるかもしれない。適度な米軍プレゼンスはまだ必要である。また、日本はイラクの戦後復興のために積極的な支援を行っていくべきである。

以 上