アラブ諸国の民主化の動きは、非常に展開が早い。ここ24時間の間に、イエメンの大統領が辞任に合意し、アラブ連盟はシリアの流血を止めるために監視団を送ることを決め、エジプトでは国家救済政府の樹立が打ち出された。この講演において、私は、アラブ諸国が直面している様々な課題と民主化の動きに関して、重要な動態と要素の幾つかを取りあげて語っていくこととする。
まず、指摘しなければならないのは、チュニジア、エジプト、リビア、イエメン、シリアなどの権威主義体制は、30年から40年、50年、さらには60年という長い時間をかけて構築されたことである。権威主義体制は、単に一人の独裁者が権力を握ることによって構築されたのではない。軍、警察、秘密警察といった暴力装置・治安機関と国家の官僚機構の中に、血縁や地縁、部族、宗派などを活用して独裁者に対する忠誠のネットワークを張り巡らせ、社会のあらゆる階層を監視下に置き、経済的利権を政権との関係に応じて恣意的に分配することによって構築されてきた。その結果、長年にわたって権威主義体制下に置かれてきたアラブ諸国は、政治体制や官僚機構、軍だけでなく、社会構造や経済構造の全体が権威主義体制に順応してしまっているのである。したがって、一人の独裁者を退陣に追い込んだだけで、民主化が達成されるわけではないのである。もちろん、わずか数週間でベン・アリやムバーラクを退陣に追い込んだ民衆の力は評価すべきものであるが、しかし、実際に起こったことは、一人の独裁者が権力を手放し、別の誰かに譲ったに過ぎない。権威主義的な政治体制や社会・経済構造の全てが、数週間で変わったわけではないのである。
チュニジアを見てみると、ベン・アリの退陣後、権威主義体制から民主体制への移行が比較的順調に進んでいると言える。他方、エジプトに関しては、ムバーラク退陣後、混乱状況が続いてきた。昨日まで、大統領選挙の日程すら決まっておらず、ようやく、軍最高評議会が2012年6月に大統領選挙を行うと発表した。議会選挙と地方選挙も数ヶ月間の時間を要するであろうし、新憲法をどのようにとりまとめるのかについても見通しが立っていない。そして、最近のタフリール広場における衝突を見ると、統治の正統性をめぐる議論が百出していることが判る。この点、旧体制が戦闘によって完全に破壊されているリビアや、将来そうなるかもしれないシリアの方が、新体制への移行は容易なのかもしれない。また、各国内部の動向に加えて、アメリカ、EU、イスラエル、トルコといった国外からの影響も無視できない。アメリカがムバーラクの退陣を求めなければ、エジプトの軍部がムバーラクの退陣を準備することもなかったであろう。このように、国外からの影響が、国内の動向を決定することもあるのである。
以上の諸点を踏まえて、私は、アラブ諸国の政治変動の展開を決定する幾つかの要素について話を進めていく。最初に取りあげるのは、過去の経験という要素である。これまでに経てきた経験が、これからの将来を決定するのに大きく影響するのである。リビアを例に取ってみよう。リビアは、カッザーフィー以前の王政時代から、国家の経済を石油に依存し、国民の80%が国家による雇用に依存してきた。この構造は現在に至るまで変わらず、部族や地縁が重要な意味を持つ社会構造も変わっていない。イラクやシリアといった他のアラブ諸国では、都市化や近代化によって部族や地縁の重要性は大きく低下していったが、国家による石油利権の分配に依存してきたリビアにおいては、部族主義や地域主義が重要性を維持してきた。カッザーフィーも、部族や地域間の反目を意図的に利用して権力を保持してきたため、部族主義や地域主義が現在でも大きな意味を持つ。したがって、カッザーフィー体制後のリビアの政治も、国家による石油収入の分配に、部族主義や地域主義を通していかに与るかをめぐって展開すると考えられる。一方、イエメンも、リビアと同様に、部族主義や地域主義の強い社会である。しかし、中央政府の力が伝統的に弱いことや石油利権が存在しないこと、そして、1990年代に政党政治の経験があることなど、リビアとは異なる歴史的経験によって、リビアとは異なる将来を歩むと予想される。
次の要素として、政治経済的要素を取りあげる。アラブ諸国における蜂起は、社会階級的な革命という性格を持つ。タフリール広場のデモやサナアの蜂起などで、政治的自由や人権などと並んで、貧困と失業が非常に重要な問題であることが判る。チュニジアの蜂起も、地方都市の貧しい失業した野菜売りの焼身自殺を発端とする。シリアでの衝突も、ダマスカスやアレッポといった中間層の多い大都市ではなく、貧しい農村地帯から起こった。こうした地方都市や農村地帯は、新自由主義的な経済政策の弊害に曝されている地域であり、貧困という社会経済的要素がアラブ諸国の蜂起における中心的な問題であることが理解される。エジプトのタフリール広場でのデモに大きな役割を果たした「4月6日運動」は、中間層出身の若年層を主体とするが、その運動の名前は2008年4月6日に起こった労働者と警察の衝突事件に由来する。チュニジアやエジプトは、ここ数年ほどの間に、様々な労働運動を経験しており、それらの経験が、中間層の民主化活動家や学生などと結びついて今回の革命に至ったと言えるのである。
貧困と並んで政治経済的要素においてもう一つ重要なのは、権威主義体制が資本家層との間に作り上げたパトロン−クライアント関係のネットワークである。このパトロン−クライアント関係を通して独裁者と縁故を持つ一部の特権的資本家は、大型国家プロジェクトを受注したり、輸入製品の独占販売権を公認されるなど、様々な利権を得てきた。こうしたクローニー資本主義的な構造は、新自由主義的な経済政策の導入によっても変わらなかった。2003年まで、エジプト経済の約70%が国営部門によって占められていた。それが、その後の8年間の新自由主義的経済政策により、現在では約70%を民間部門が占める。しかし、この数字の変化は、市場経済の活性化によるものではなく、単に、特権的資本家に企業の所有権を移転したことによるに過ぎない。新自由主義的な公共部門の削減によって、政権と癒着した特権的資本家はますます大きな富を独占し、その一方で、多くの一般の人々は、世界的な食糧価格高騰とも重なって、ますます貧しくなっていった。こうした経済構造に対する不公平感が、チュニジアやエジプトの革命を引き起こす重要な要因だったのである。
上述の社会経済的な課題は、エジプトやチュニジアの将来にも大きく影響する。一般の労働者や公務員などの中間層は、社会正義の実現、より具体的には社会福祉と雇用の保障を今なお国家に求めている。これは、ここ50年から60年の間、国家が福祉と公用を保証する代償として、国民の政治的権利を制限してきたことの一つの帰結である。福祉と雇用を国家に期待する傾向は、アメリカやEU、IMF、世界銀行などが求める新自由主義的経済に対抗するものであり、国内の国家への期待と国外の新自由主義的圧力の間の緊張が、エジプトやチュニジアの将来に大きく影響すると考えられる。先に述べたように、アラブ諸国の民主化は、国外の諸勢力が、外交や市場を通してより完全な民主化を支援するのか、あるいは、経済的利益を民主化に優先させるかといったことに規定される部分も大きいのである。
そして、アラブ諸国の蜂起において決定的に重要な要素を果たすのが軍である。チュニジアとエジプトにおいて大統領に引導を渡したのは軍であり、シリアのアサド大統領を政権に留めているのも軍である。軍の統一が崩れたリビアとイエメンは、内戦状態に陥った。何れの場合についても、軍が事態の推移を決定したと言えよう。民衆蜂起に際して軍がどのような立場を取ったかは、それぞれの国において軍と国家、国民がどのような関係にあったかによって様々である。チュニジアの体制移行は比較的スムーズに進んでいるが、それは、軍が小規模で弱く、政治に関与してこなかったことによる部分が大きい。チュニジア軍は、共和制イデオロギーの護持者としての自己認識を強く持ち、それ故に、革命の支持を表明し、文民政治諸勢力の代表による移行政権を守る役割に徹した。文民主体で選挙日程や新憲法採択に向けた取り組みを行ったことが、体制移行に対して十全な正統性と透明性を与えることとなったのである。
エジプトにおける革命と軍の関係は、チュニジアとは逆のものとなった。ムバーラクは権力を軍に委譲し、それを受けた軍が統治を開始した。軍は、大統領の行政権限と司法権限を手中にし、憲法を司る立場に立った。このことが危機的な状況を招いている。エジプト軍は、11月にカイロで「超憲法的原則」に関する文書を発布した。その中では、軍が、政権移行後の将来も恒久的に全ての文民の権威を超越する権限を持ち、財政、立法においても拒否権を持つと明記されていた。つまり、仮に大統領が宣戦を決定しても、軍はそれを拒否できると言うのである。文民による暫定政権が一応成立したものの、軍は未だに超越的な権限を持っており、上述の文書を公式には撤回していない。エジプトに文民統制はないのである。政党も軍の示した枠内で政治活動を行い、現在のエジプトの民主主義は軍の庇護下の民主主義と言える。
民主主義、あるいは、民主的政体は、定期的な選挙によって選ばれた大統領と議会、独立した司法によって構成されるものであり、軍は常態においては政治から離れているものである。しかし、エジプト軍は、国家の安全を保証し、憲法に基づく政体を守護するだけでなく、裁定者であり、調停者であり、国益の護持者であろうとしている。大統領であろうと議会であろうと、国益に反すると思われる行為をした場合には、軍がそれを止める。つまり、文民は何も判っておらず、軍だけがエジプトの国家を理解しており、したがって、軍だけが、エジプトの国家にとって何が良くて、何が悪いかを決められると言うのである。これは危険な方向性である。
リビア、イエメン、シリアにおいては、軍は、全く異なった役割を果たしてきた。これらの国の社会は、宗派や部族、地域などによって分断され、都市部と村落部の差違も大きい。これらの国々において、国家は、獲得される資産と見なされてきた。クーデターなどによって国家を掌握した者は、国家の資源や利得を管理することができるのである。そして、それらの利得を、忠誠と引き替えに、支持者に分配してきた。したがって、ある特定の地域や集団に基盤を持つ者が国家を掌握するためには、軍を押さえ、利権の分配によって軍の忠誠を取り付けることが重要になるのである。イラクにおいても、アメリカは民主的な憲法の下、文民統制による制度的で職業的な軍の創設を試みたものの、マーリーキー首相と個人的な忠誠関係によって結びつく軍ができつつある。リビアにおいても、誰が軍を指導するかをめぐって争いが起きている。
以上の諸要素から見えてくる課題は、いかに公正な社会を築くかということである。人々は援助や施しを望んでいるわけではない。彼らが望んでいるのは、自分たちの手で商売を行うなどの小さなことであり、治安機関や警察の人間に賄賂を払わなくてもやっていける社会である。エジプトなどの警察官は、給料が非常に安いために賄賂を要求するのである。国中に、盗んだ携帯電話の売買などの違法な、あるいは、脱法的な商売に関わっている人々がおり、警察官は、こうした人々から賄賂を受けて、それを見逃してきたのである。人々は、こうした状況から逃れたいと望んでいるのである。
そのためには、例えば、警察官に充分な給料を支払わなければならない。しかし、エジプトだけで約140万人もいる警察官や治安機関員に、どのようにして充分な給料を支払うことができるだろうか。半分を解雇すれば、それもまた大きな問題となる。この他、住宅供給に雇用の創出も重要である。アラブ諸国の人口においては、約60%が20歳以下の若年層である。彼らに必要な教育を施し、満足のいく就職先を確保し、充分な住宅を供給することは、アラブ諸国の政府の手に余る。エジプトにおいては、若い男女の結婚が大きな危機に直面している。彼らも、彼らの家族も、結婚にかかる基本的な最低限の費用を賄うことができないのである。住宅不足は、1990年代のアルジェリア内戦の主要な原因の一つであった。二家族が狭い部屋を共有して、交代で眠るようなことが起こっているのである。
こうした深刻な問題を前にしたとき、民主化を語ることにどんな意味があるのだろうか。民主的に選挙で選ばれた新しい政府は、こうした深刻な課題に対処していかなければならないのである。住宅供給や雇用創出、年金といった社会福祉を充実させ、国民の要求と外部の圧力に応えて新自由主義的な経済改革を進め、同時に軍にも対処しなければならない。この軍は、政策が社会の安寧に反すると判断した場合には、政治に介入し、政権を放逐することもできるのである。軍の政治介入は、チュニジアですら起こり得る。私は、先月、チュニジアの軍人たちと話したが、彼らは、法の遵守と文民統制を尊重すると強調しつつ、国家を運営する上では自分たちの方が有能であり、主要な国政について助言を行うべきであると語っていた。彼らが助言すべきと考えている国政とは、外交や安全保障問題ではない。教育や社会福祉、食糧安全保障といった、社会の安定にとって重要な政策である。
また、経済界、特に、大資本家層の中には、より広範で深い政治的・経済的改革や民主化を進めるのではなく、かつて独裁者の取り巻に取って代わって、新たな特権資本家になろうとする傾向がある。つまり、エジプトに関していえば、ムバーラクと特別な関係を結んで権益を漁ってきたアフマド・イッズに取って代わって、誰か別の資本家が彼と同じことをしようというわけである。この場合、抜本的な経済改革を行う必要はない。チュニジアでは、ベン・アリが、自分の資本家ネットワークに特権を与え、その他の資本家たちを犠牲にしてきた。それ故に、特権に与れなかった資本家たちは新自由主義的な改革を望んできたのであるが、ベン・アリがいなくなった今、彼らがベン・アリとその取り巻きに取って代わって特権を独占しようとするのかを注視していかなければならない。イエメンにおいては、重要な軍司令官であり、サーリフ大統領の義理の兄弟であるアリー・ムフスィンがデモ隊に対して発砲することを拒否した。彼は、また、アフマル家が率いる強力な部族連合、ハーシドも大統領に対立している。この3者が、イエメン政治の3極をなす。若い活動家やツイッター・フェイスブックに集う人々は政治の舞台から閉め出され、イエメンにおける事態の推移は、もはや、サーリフ、アリー・ムフスィン、ハーシド部族連合の三者によって担われているのである。これらの3者は、それぞれに支持者の集団を持ち、武装した民兵を配下においている。彼ら3者は、お互いとその家族を良く知っていて、経済を牛耳ってきた。彼ら3者は、8ヶ月前まで経済的利益を分け合ってきた。若者たちの街頭デモがもたらしたのは、危機を作り出し、この3者の関係を変えたことだったのである。
最後に指摘したい点については、トルコの経験を例に語ろう。トルコは、大変興味深く、また異質な資本主義的発展を経験してきた。周知のとおり、トルコは、主要な新興経済大国の一国、あるいは、地域におけるミドル・パワーとなっている。トルコは、1930年代以来、国家主導で工業化を進め、財閥中心の重工業部門を発展させてきた。それに加えて、1980年代に自由主義的イスラーム保守派のオザル政権の下で、自由主義的な市場経済が導入されたことで市場規模が広がった。また、国内市場とEU市場が連結され、自由主義的経済理念とともに、人権や軍の文民統制、民主主義といった価値観もトルコ国内に定着していった。そして、こうした一連の経済発展と経済自由化は、コンヤなどの地方都市を拠点とし、アナトリア・ブルジョアジーと呼ばれる中小企業の経営者層を大量に生み出した。彼らは、ケマル主義を掲げる国家には依存しないで、独立して富を築いてきた。彼らが、自由主義的イスラーム保守派政党AKP(公正・発展党)を政権与党に押し上げ、AKP党首のエルドアンを首相の座に着けたのである。彼らは、また、チュニジアやシリアといったアラブ諸国への市場と投資の拡大も熱心に進めてきた。
こうしたトルコの社会経済発展は、権力者と癒着しなければ事業を拡大できないエジプトなどのアラブ諸国の状況とは大きく異なっている。したがって、トルコの成功を単純にアラブ諸国のモデルとすることはできない。しかし、今回の政治変動は、新しい資本家層の出現を促し、経済的多様性を促進する機会とすることはできる。問題は、権威主義体制の利権配分を通して、経済活動の枢要部分を独占してきた軍に対抗できる勢力をいかに形成するかである。また、労働者階級の様々な権利をいかに保証するかも重要である。抑圧されてきた様々な社会階級・集団は、現状を改善する機会を求めている。人々は、国家に金をくれと要求しているのではない。人々は、国家に対して、基本的な権利と食糧供給を守り、基礎的な社会福祉を保証するように求めているのである。
|