JIIAフォーラム講演要旨

2012年2月15日
於:日本国際問題研究所

ジョナサン・ポラック

ブルッキングス研究所上級研究員

「北朝鮮と核兵器―歴史に照らし将来を展望する―」


はじめに
不可視性をその特徴とする北朝鮮体制に対して、その埒外にいるわれわれがはたしていかなるものを「知りうる」のか。これが発表者にとってもっとも根源的な主題であり、本日の発表もそこに主眼を置いている。とりわけ、いまや国際社会にとっての関心事となった北朝鮮の核開発に対して様々な側面から光を当て、そこに投ぜられた「影」から不可視の内実へとアプローチを試みること、これが本日の主たる目的となる。その上で、昨年末の金正日・朝鮮労働党総書記の死去から今日に至るまでの状況についての所感を付すことでささやかながら思考の材料の提供を試み、もって会場を埋めた聴衆のご足労に報いたいと思う。なお、本発表は基本的に昨年5月に上梓した拙著の内容を敷衍した個人的見解であり、よって煩瑣を避けるために微細な論考には踏み込まない点を、予めお断りしておきたい(1)

北朝鮮の核開発―その「特異性(ユニークネス)」をめぐって
まずは発表者の基本的認識から詳らかにしておこう。北朝鮮の体制の異質さはたびたび指摘されるところであるが、特に発表者の関心に照らすならば、北朝鮮がその建国(1948年)以来、国際社会においてもっとも長きにわたり米国の「敵対者」(adversary)であり続け、米国との間に通常の国家間関係を構築することがなかったという点、また高い識字率と水準以上の工業化を実現しながらも飢饉に苦しむ唯一の国であり、同時に青壮年男性の約1/5(100万人)が軍人という、甚だしく軍事化が進んだ国である点、さらには周知の通り人権を著しく抑圧しつつ、世界でもっとも孤立した経済体制を保っている点がとりわけ重要である。

もとより、これらと関連して今日北朝鮮が直面している苦境は、何よりも彼ら自身の決定と選択によってもたらされたものではある。ただ、われわれの間に北朝鮮をいかに評価するかをめぐって各様の意見があるにせよ、北朝鮮がかく孤立した、そして破綻した経済情勢の下で核開発を継続してきた(している)事実自体は、けだし特筆すべきことといわざるを得ないであろう。そして、まさにこの点が、発表者にとっての北朝鮮体制の最大の特徴ということになる。

さて、周知の通り北朝鮮の核開発問題は1990年代初頭より国際社会の関心を集めるようになり、以来一貫して懸案事項であり続けてきたわけであるが、発表者にとっては、むしろ核問題を討議する米朝の高官級会談が1992年1月(アーノルド・カンター国務次官―金容淳・朝鮮労働党国際担当書記)に至るまで開かれなかったこと、言い換えればこの時期に至ってようやくそれが実現したことこそ奇異に感じられる。つまり、この問題においてアメリカはいわば「遅れてきた参加者」なのであり、このことからは、より遡及的に北朝鮮の核開発をとらえる必要性が浮上する。そしてこの見地に立つならば、北朝鮮の核開発が顕在化(テイク・オフ)したのは90年代初頭で、ソ連崩壊にともなう安全保障の術(核の傘)の喪失がその契機となったとの解釈―実際、1990年9月のシェワルナゼ・金永南による外相会談の席ではそれに類する応酬がなされたとされるが―にも再考の余地が生じることとなるのである。北朝鮮の体制が先述のとおり秘匿性を旨とする以上、明確な資料を挙げることは困難であるが、個人的には北朝鮮が核開発への志向性を確たるものとしたのは1970年代初頭のことであり、そこには南北朝鮮の体制間競争における劣勢認識、そしてそれ以上に、あらゆる外部勢力―アメリカ・日本・韓国のみならず中国、あるいはNPT(核拡散防止条約)への加盟を自国に「強いた」ソ連も含め―の影響力の排除を常に目指した金日成の意識が作用していたと考えている。いかなる国も「偶然に」「ある日突然に」核兵器を保有することはありえず、明確な政策的意図に基づく活動が必要なのであって、それが形をとりはじめたのが1970年代で、平安北道・寧辺での黒鉛炉の稼動(1986年)、それに続く再処理施設の完成は、その実体化であったということになろう。資料に分け入りつつこのような歴史を再構築し、その結果を概括するとき、金日成の存在と役割は時として曖昧ですらあるが、直接的な開発者である北朝鮮の科学者をサポートしつつ核開発への方向付けを行ったこと、そしてこのような志向性を維持し、そのために最大限のエネルギーを注いだことは確実といえる。この過程で北朝鮮が核開発のヒントとなる資料と機材をなりふり構わず渉猟していたことからもその執着は明らかであろう。そして、このような「資産」があったればこそ、金正日体制下の北朝鮮は核兵器を経済的困窮の中にあって開発することができたのである。

このような観点が、戦略的な意味でも国内的な意味でも莫大なリソースの投入を必要とする核開発を北朝鮮が行う理由(why)と手段(how)を理解するうえではより有用ではないかと考える。北朝鮮がその「強いられた」NPTへの加盟(1985年12月)以降、あらゆる非核化の合意に抵抗し、NPT自体からの脱退はむろんのこと、何より二度の核実験によって不拡散体制への挑戦の意志を明示する現状、そして外交交渉において有効なカードとして核開発・核兵器を用いる今日の構図も、この延長線上に存在していると見るのが妥当であろう。

「知りたいこと」と「知りうること」―北朝鮮の最終的目標(ゴール)とは?
では、ここで本日の主題である認識の問題、つまり「われわれは何を知りうる/認識しうるのか」に進むこととしよう。もちろんこの問題は北朝鮮の核開発の技術的水準、核保有の目標、地域安全保障と不拡散体制への影響、あるいは先日発表のあった米朝高位級会談再開の行く末など広範に及ぶものであるが、ここでは若干巨視的な観点から接近することとする。

北朝鮮について確実に知りうることと、北朝鮮について真に知りたいこと―つまり北朝鮮内部の奥深くでの変化―の間には避けがたい懸隔がある。そしてこの点から、ならばいかにこの懸隔に相対するのかという、いま一つの問題が生じることとなる。発表者がこれに対して試みるのが、歴史を通じた「why」と「how」への接近―より正確を期すれば、上記の懸隔が完全には超克できないことを認識しつつそれを行うこと―であり、そこから浮かび上がるものが、北朝鮮の核開発が数十年にわたる歴史を有している点、そしてあらゆる外部世界からの圧力を脱したいとの志向性と、核保有が体制の持続性を効率的に保障するとの認識に裏打ちされている点であることについてはすでに触れた。このようなスタンスを取る以上、発表者は「北朝鮮があらゆる外部勢力に向けられた敵対的ナショナリズムによって駆り立てられており、それが自身の体制と核開発に作用している、よって北朝鮮の核開発はあらゆる外部的要因から独立して動いている」との悲観的な見方を呈さざるを得ないのであるが、ともあれ、実態としての核兵器開発および運用能力がなお不詳であるという表面上の特徴のみをもって、もっと多くの保障を提供していたならば、あるいはより強度の制裁を課していたならば、との議論を反復すること―発表者はこれらを「if-only(たら・れば)の議論」と呼ぶ―が生産的とは言いがたい点については、おそらく大方の理解が得られよう。核開発を可能たらしめている要因が特定できていてこそ、これらの手法も十全に機能するのであって、しかるに北朝鮮の場合には長年に渡り維持されてきた内部的要因が、これに該当するためである。

ならば、北朝鮮は何をもって「十分」とみなすのか。そして彼らが仮にそのような目標を設定している場合、それはいかに外部から判断されうるのか。発表者は北朝鮮の外交政策そのものに加えて、彼らの技術的選択肢、そして核開発を継続することに対する北朝鮮自身の認識が、そこに分け入る上での切り口になると考える。

北朝鮮の核開発の基盤は当初プルトニウムに置かれていたが、それ以外のオプションの追求を繰り返し否定してきた彼らの態度はブッシュ政権期に入って大きく変化し、ウラン濃縮が公言されるに至る。このことと先ほど挙げた核開発の特性―一朝一夕に実現されうるものではない―を考慮すれば、北朝鮮がウラン濃縮計画に着手したのは1980年代後半で、1990年代にかけて急速に具現化したものと見られ、またその過程に与ってパキスタンのA.Q.カーン博士に大いに「功」があったことは今日広く知られている。他方で、核問題をめぐる北朝鮮との交渉は時に大きな進展も示し、第一次核実験が行われた2006年に前後して、6カ国協議では9.19合意(2005年)、2.13合意(2007年)が成立していた。

6カ国協議が2008年を最後に中断状態にあることが示すように、これらの合意は現実としての核放棄には帰結しなかったわけであるが、これらの経緯からは、北朝鮮がプルトニウムによる核開発を通じ一定の成果を―単純な原子炉の建設にとどまらないレベルで―得る一方、代替案の構築の必要性を痛感するに至っていた可能性が浮かび上がる。いうまでもなく、原子炉を含め外部からその存在が容易に関知されるプルトニウム計画に比してウラン濃縮は秘匿性が高い。すでに北朝鮮が自らウラン濃縮を公言しているにもかかわらず、その実態を検証できずにいる現実はその端的な例であろう。たびたび表明される「寧辺での濃縮作業を中断する用意がある」との声明への疑念を待つまでもなく、ヘッカー・スタンフォード大教授が寧辺で「見せられた」2000台の遠心分離機が彼らの濃縮施設のすべてであると信じるに足る根拠はなく、2004年1月以来7年連続で北朝鮮を訪問した当のヘッカー教授さえ、2010年11月を最後に寧辺へのアクセスを許されてはいない。このように、公言/公開のタイミングと規模を国益に合わせてコントロールしうる点は北朝鮮のスタイルに真に適合的といえ、その上北朝鮮は今も国際社会のあらゆる努力に抗って国外からのさらなるテクノロジー導入を図るなど、この「利点」の補強になお余念がないのである。

以上を瞥見すれば、北朝鮮が9.19合意に見られたように合意文面の解釈をめぐる相違を利用してウラン濃縮を埒外に置きつつ、周辺国に取り返しのつかぬ禍根(a lot of water under the bridge)を残した米朝枠組み合意(1994年10月)の再現を目指していることは直ちに理解されよう。そして北朝鮮が自国は中国・ロシアから保証と支援(容認までも?)を得ていると信じ、いずれは他の国々も「核保有国としての北朝鮮」を受け入れざるを得なくなると判断していることもまた、強く示唆される。

このように、北朝鮮が核開発を秘匿しうる―複数回の核実験を極秘裏に行ったという、やや突飛な説が提起される現状自体がその証左であろう―という点、そしてアメリカが「戦略的忍耐」を掲げつつも、国際社会との正常な関係と核開発が両立しないことを強調して北朝鮮の核保有能力を容認しない点、にもかかわらず中国の政治的・経済的サポートがそのような方針の実効性を相当程度減殺している点は、北朝鮮の目標設定にいかなる影響を及ぼすのか。むろん、金正日という指導者を失った北朝鮮が、少なくとも当面は過激な行動を抑制しようとする蓋然性は高い。ただし年間1発程度の核兵器を生産しうるプルトニウムを継続的に得ており、かつ核兵器を製造しうる能力を有するとされる北朝鮮が、その安定的な運用・管理能力の獲得を目標に設定しているであろうこと、そして仮に濃縮ウランを用いた核実験を北朝鮮が実行した場合、対北抑止力を大幅に弱化させるという点においてその影響はプルトニウム型とは比較にならないことは、銘記しておく必要があろう。

「金正日後」の北朝鮮―若干の観察
さて、ここで視線を転じ、昨年12月の金正日の死去から現在までの北朝鮮の状況について私見を述べてみたい。

まず後継者の動向について。
金正日と父・金日成の間には明確な個性の差があった。自信家で計算高く、スターリンや毛沢東ら大国の指導者と「渡り合う」ことに何ら躊躇を感じなかった金日成に対し、金正日は深く葛藤し、決断を下すことを常に躊躇する傾向が顕著で、ほぼ唯一の例外が、核開発の継続とさらなる推進に関する決断であったといっても過言ではなかろう。よって、金正日なき現在は、なにより新指導者の個性を推し量るうえで興味深いタイミングということになる。今後核開発に明確なシフトが生じることになれば、それはすなわち金正恩の―あるいは金正日の重鎮たちの―判断が従来のシステムの変容をもたらしたことを意味するためである。ただし、核開発を金正日の「遺産」と描写する各種声明を見る限り、これに期待することは少々楽天的の謗りを免れまい。

なお、金正日の「決断力」に関して付言すれば、それは後継問題についても当てはまる。自身の発作(脳卒中とされる)を経て、ようやく金正恩への限定的な権限付与が着手されたことはその好例であり、その意味では金正日はなによりも「時間との競争」に敗北したといえよう。ただし、金正日死後の状況を見る限り、現時点で上層部に混乱が生じている兆しは看取されず、また金正恩も精力的に現地指導・視察を重ねている。これは「時間的空白」が招来しかねない体制の動揺についての懸念が上層部に共有されていること、また金正恩が自身の「なすべきこと」を明確に理解していることを物語るものでもある。むろん表層的な現象からの安易な判断は前述の通り戒むべきだが、「父の重臣たち」とともに、軍との相互依存を強めるという―軍部隊視察時に兵士らと親しく肩を組んでみせるパフォーマンスが象徴的に示すごとく―構造に大きな変化はないものと判断されよう。ただ、発表者としては、プロパガンダとしても用いられる金正恩と祖父・金日成との「同一性」が、単に容姿上の類似にとどまることなく、その個性にまで及ぶことに(ある意味で)期待している。17年間あまりのその統治期間においてついに一度も公開の場で演説を行うことがなく、直接面会した人物の伝聞によってしかその肉声に触れることのできなかった父・金正日のスタイルを脱して、積極的な発言を好んだ金日成の方式―それらの発言と実態・真意の関連はもとより別個の問題である―に金正恩が「回帰」するならば、それは「知りうること」からの北朝鮮へのアプローチを、多少なりとも容易にしてくれるためである。ともあれ、現実的には、任期切れを控えた李明博政権の「次」を見据えて展開されるであろう対南政策が、当面の「変化」の判断材料ということになろうか。

中朝関係―影響力拡大と選択肢減少のパラドクス
次に中国の対北スタンスについて。 中国は今日、北朝鮮にとって最大の―経済的のみならず政治的支援の面においても―庇護者となっているが、そこに両国の絶対不変の紐帯と信頼関係を見出すものはおそらくごく少数であろう。

金正日と中国の関係は、その生涯を通じ常に緊張を内包したものであった。金正日は父・金日成が訒小平との間に交わした約束(年例訪問を行い、改革・開放の成果を次期指導者に学ばせるとの内容であったとされる)に基づいて1983年6月に非公式訪中を果たしたものの、以後2000年5月まで中国を訪問することはなく、また1997年2月の訒小平の死去に際して弔問のため中国大使館へと足を運ぶこともなかった。さらに言えば、北朝鮮が1980年代に起こした数々の問題行動―1983年9月のラングーン事件など、多くが金正日の指導下で行われたとされる―も、対外開放へと北朝鮮を誘導しようとした訒小平との関係を険悪なものとしていた。

金正日が一時危篤に陥った2008年以降、中国指導部では対北朝鮮政策をめぐって激論が交わされ、最終的には核実験に代表される北朝鮮の反抗的姿勢への懸念を封殺する形で投資と安全保障面での支援が強化されることとなった。2009年10月の温家宝訪朝(中国首相としては18年ぶり)、梁光烈国防相訪朝(同11月)、韓国哨戒艦「天安」号事件と延坪島砲撃事件後の中国の対応はその可視的形態とでもいえようが、これらも、北朝鮮への信頼感よりは、自国に及ぶ損害を最小化したいとの打算に貫かれていたのである。これは金正日死去後の後継体制のプロセスにおいても同じことであり、中国は他国には実行不可能な形での情報収集を進めつつ、自国にとってのリスクを最小化する対応を決めた。複数の中国の事情通によれば、北朝鮮側の行動の自制を条件に、政治的・経済的支援を提供する取り決めが、両国の間にこのときなされていたということである。もとよりその真偽を―付け加えれば中国がいかほどそれを信用しているのか、も―確認する術はないが、今日の中国にとっては、南北双方に対して国益と影響力を行使する、俗称「二つのコリア」戦略が、北朝鮮の崩壊への妥当な事前対応策と判断されているのであろう。

ただし、この決断は中国の立場をいっそう困難なものとする危険を内包したものでもある。北朝鮮の現体制(既存のシステム)を維持させるためのみに続けられる投資の負担に加え、北朝鮮のリスク・テイキング―容易に想起されるのは新たな核実験―は、中国の立場をさらに苦しいものとし、のみならず中国が北朝鮮に対して影響力を行使しうるとの社会的通念にも重大な瑕瑾を及ぼすこととなる。したがって、発表者は中国が自らの採りうるオプションが限定されていることを理解しつつ、現時点では北朝鮮の体制維持のために投じられる政治的・経済的コストが許容しがたいほどには高くないとの判断を下しているのであろうと推測する。よって、金正恩(ないしは指導者層)が国内をいかほど掌握しうるのか、そして中国の立場をいかほど斟酌するかをめぐって中国の苦悩は続くことになろう。また外部観察者にとっては、その表現形態として金正恩訪中が行われるか否かが、その程度を推し量る上での一つの指標となると考えられる。

むすびにかえて
ここまで少々悲観的な見解を連ねてきたことからもお分かりのように、発表者の立場は指導者の死をシステムそのものの死と同義と捉えるものではないが、もちろん体制が万代不易であるとの見方にも与してはいない。体制が内外における状況悪化によって従来以上に動揺していることは明らかであり、それらにいかに対処するかという課題が、指導者の死によって再浮上するというのが発表者の立場である。体制の今後に対する予測は発表者の能力を超えているが、この点について思うところを述べ、本日の締めくくりとしよう。

北朝鮮が国際社会の圧力の下で体制を保つにあたって中国の支援が大きな役割を果たしていることについては先に述べたとおりであるが、それが北朝鮮の行動如何によって変化し、北朝鮮体制の維持を困難にする可能性はむろん指摘しうる。ただ、より大きな要因となりうるのはむしろ国内的な「挑戦」であろう。

特に社会的変化という「下からの挑戦」は重要であり、北朝鮮での事業展開を許されたエジプトの通信会社によれば100万台の携帯電話が国内で普及する状況にあって情報伝達のルート―外部情報の流入と国内への伝播という両側面において―をいかに制限し、かつ非公式の市場化が体制批判につながることをいかに防遏するかが、これまでにない切迫度をもった政策的課題となっている。つまり民衆が体制をどのように考え、どのような期待を抱き、どのようにそれらを表出するかについて、北朝鮮当局が無視しえない状況が今や現出しているのである。

また、指導層と官僚制全般における世代交代の問題も、これに劣らぬ重要性を持つ「挑戦」といえる。若き金正恩がより若年世代の官僚らの登用を図るのか、あるいは父の「遺臣」たちを引き続き重用するのか、そしてその過程でいかなる事態が出来するのかを、細かにチェックする作業が今後さらに必要となろう。金正日は父・金日成の遺した人事構成をある程度引き継ぐ途を選択し、結果1993年から2010年に至るまで党中央委員会政治局に新たなメンバーが加わることはなかった。また2010年9月の党代表者会で新たに同局に加わった顔ぶれを見ても、平均年齢77歳というその構成が忠誠度の一点を基準に選定されたことは明白であった。遠からずして引退を迎えるであろう彼らが「円満に」退くのか、あるいはより急進的な形で新たなエリート層への転換が進行するのかが、体制の安定度を左右するいま一つの要素ということになる。

ただし、発表者が最後に指摘したいのは、これらの「挑戦」が北朝鮮の核開発とは別個の次元で存在しており、なおかつ、外的要因とも切り離された形で核開発が進んでいるという点である。つまり、核開発は体制そのものの中にビルト・インされた不可分のものであり、また指導層の認識も、核兵器が自らにとって不可欠と見なす点において一致・一貫しているということになる。発表者が北朝鮮の体制を自立的な形で永続可能なものであると見ていないことについては先に述べたが、それでも「時間は外部世界に味方する」との前提に立って進められる「戦略的忍耐」の戦略が、北朝鮮の核開発のさらなる「上積み」に―遅々たる歩みであるにせよ―帰結する可能性について、発表者は懸念を禁じえない。そして、いつしか北朝鮮の核保有が既成事実化するのみならず、確度を増したその能力が第三者に移転されるやもしれぬとの悪循環の危険性が北朝鮮との交渉において常に伴うことを、あわせて指摘せざるをえないのである。

むろん、北朝鮮がそのような路線にいかに「合理性」を見出し、また核兵器を体制にとって不可欠の存在とみなしていようと、核の能力を使用したあらゆる脅しに対しては、重大な反応が伴うことになる。北朝鮮の体制崩壊に伴う核拡散も、また北朝鮮による核開発・伝播のいずれも望まぬ外部のわれわれにとっては、北朝鮮があらゆる困難の中で核開発を継続してきた経緯を認識することと、そのような行動を可能たらしめぬように状況を導くこと―周辺国・関係国の一致した対北姿勢の下で―が、今まで以上に求められることとなろう。


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(1) Jonathan D. Pollack "No Exit: North Korea, Nuclear Weapons, and International Security"(Routledge, 2011)

以 上